<8-3-1>自由の代償(1)

<8-3-1>自由の代償(1)
 
(本節の概観)
 本節では夫婦に関して少し別の角度から考えてみようと思います。夫婦双方のパーソナリティとか、問題を抱えているか否かとか、そういうことも一切度外視して、現代における夫婦ということを考えてみたいと思います。
 基本的な論旨は次のものであります。一昔前に比べると夫婦にはかなりの自由が認められているが、この自由の代償として夫婦には特殊な困難が生まれることになっているのではないか、ということであります。時代の移り変わりが速いほど、親世代の夫婦をお手本にすることができなくなり、今の夫婦はある意味ではモデルやお手本となる夫婦を得ることができず、自分たちで手探りしながら夫婦を形成していかなければならないのではないか、それもまた自由の代償である、ということであります。
 お断りするまでもなく、ここで述べることは私の個人的な見解であります。賛成する人もあれば、反対する人もあるでしょう。部分的に賛成でそれ以外は反対だと思う人もあるでしょうし、基本的に賛成するけれど極論すぎるという感想を持たれる人もおられることだろうと思います。いろんな考え方の人がいるのが当然であり、且つ、それが望ましいことでもありますので、読んでくれた人はご自身の考えを大事にされるとよろしいかと思います。
 読んだけど何もならなかったという人はその感想を大切にされるとよろしいでしょう。何もならなかったということにも意味があるはずなので、そこを探求されてみるのもよろしいでしょう。今まで考えてこなかったテーマを考えるきっかけになったという人がいらっしゃれば、それもけっこうであります。せっかく読んでくれるのだから何かの足しにでもなれば私としては十分であります。
 それでは順を追って考察していくことにします。まず、現代の夫婦はどういうことから自由になったか、そこから述べたいと思います。

(世間からの自由)
 一昔前の人たち、現代の団塊の世代辺りの人にはそれが色濃く残っているのですが、例えば、離婚することは世間体が悪いと信じている人たちがいます。離婚なんてすると世間の目が集まるとでも思っているようでありますが、今はもうそんな時代ではないことは言うまでもないことであります。個人がより良い人生を送るために離婚が必要であるなら、離婚が推奨されることだってあるでしょう。
 同じように、独り者は恥だといった信念も昔は生きていました。結婚して、一家の大黒柱にならない男は半人前だなどと評価されていたものです。私も若いころにこうした考え方の人と出会っています。結婚していようとしていまいと、一人前の人もあれば半人前の人もあるのに、ずいぶんおかしな考え方をする人だと当時は思ったものでした。
 結婚適齢期という概念も昔は強かったようです。今でも多少ともこの概念は残っているとは思うのですが、昔はもっと厳しいものであったように思います。女性はクリスマスケーキと同じで25(日、歳)過ぎたら貰い手がなくなるなんてことも言われていたのでした。女というものは絶対に25歳までに結婚しなければならなくて、それを過ぎたら、あたかも、もはや女ではないと言わんばかりの偏見であるように私には思えてくるのですが、それがごく普通の世間一般の考え方でもあったのでしょう。そう思うと、けっこう恐ろしい時代でもあったような気がしてきます。
 男がいつまでも独身でいれば半人前と後ろ指をさされ、女は25歳までに結婚しないと後がないといった風潮のために、結婚は半強制的な形を取ることもあったと思います。映画にもなった『屋根の上のバイオリン弾き』のような状況が日本でもあったことでしょう。子供の結婚相手を親が決めたり、マッチメーカー(お見合いを斡旋するような人)が若い男女を結び付けたりと、そういう状況があったことでしょう。
 大体いつごろまでそういう状況があったのかということは、私の無学で正確には分からないのですが、戦前から戦後、昭和30年代くらいまではそういう時代だったのではないかと私は思っています。男として生まれてきただけでお嫁さんがあてがわれていたような、そんな時代だったのではないかと思うのです。そして、お嫁さんがあてがわれたら、今度は何があっても別れてはいけないという拘束が課せられていた時代だったのではないかと思うのです。
 社会的にはそれが望ましいと言えるのでしょう。男女が結婚して子供を産む、それで社会が維持ないしは発展できるのでありますから、社会としてはその方が都合がよいということになるでしょう。でも、個人の幸福という観点に立てば、半強制的な結婚やその後の拘束力などは、男にとっても女にとっても窮屈なことであり、不幸なことであるかもしれません。
 その時代に比べると、現代ははるかに自由があると認めてよいでしょう。個人は結婚することも独身でいることも選べるのです。独身だからといって半人前であるとは評価されないのです。結婚相手も自分で選ぶことができます。離婚しても、それが恥なことと見做されることもないでしょう。
 結婚に関して、あるいは夫婦とか離婚ということに関しても、世間体とか社会的圧力とか無言の拘束力とか、そういうものから現代の私たちはかなり解放されています。それらから自由になっています。その代わり、外的拘束力がない以上、すべてを自分たちでやり遂げなければならなくなることになります。配偶者の選択も、夫婦を維持していくことも、離婚に関するさまざまなデメリットも自分で引き受けていかなければならないということになります。
 従って、自由が増えれば増えるだけ、夫婦でいることは難しくなると私は思うのです。外的拘束力が離婚を抑制するということであれば、その拘束力だけで夫婦が形の上でも成り立つのです。しかし、離婚は恥でもなんでもないということであれば、いつでも離婚は起こり得るのです。それを抑制する外的な力がないからであります。
 もう一つ付け加えれば、外的拘束力が効力を有している間は夫婦でいることの意味なんか問わなくても済むのであります。なぜ一緒になって、夫婦として一緒に人生を送るか、それは離婚できないからだと、昔はそういうことが言えたのであります。でも、今はそうは言えなくなっているというわけであります。夫婦でいることの意味、いつでも離婚できるのに離婚しないのはなぜか、自由が生まれているがために、個々の意味を個々人が見出していかなければならないのではないだろうか、と私はそう思うのです。
 従って、現代の夫婦は、昭和30年代までの夫婦と比べて、より多くの疑問、より深いテーマについてしっかり考えなければならないということになるのです。一度結婚したら離婚することはあり得ないとか、離婚できないから一緒に生活しているだけだといった「解決」ができないのです。自分の人生を、結婚ということも含めて、しっかり考え、意味づけていかなければならなくなっているのではないかと、私はそう思うのであります。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)