<8-2C>コミュニケーションの歪み

<8-2C>コミュニケーションの歪み

 前節で、関係とはその関係の当事者双方が持ち込み合うもの、引き出し合うものによって決定されるということを私は述べました。関係を正しく理解するためには、そこに何が持ち込まれ、何が引き出されているかを正しく理解する必要があるということを述べてきました。

 実は、それは事態の一面だけを、あるいは表面だけを述べていたのでした。もう一つの面、それとは表裏一体にある裏面というものがあるのです。
 関係は、その関係に持ち込まれるものによって決まるだけでなく、その関係に持ち込むことが禁じられているものによっても決まってくるのです。
 私とあなたとの関係において、私の中にはこの関係の場に持ち込むことが許されないもの、禁じられているものがあります。同じように、あなたから引き出されることに抵抗があるもの、引き出されることを制止しなければならないものもあります。同じことはあなたの側にもあるでしょう。

 お互いの中にあって、この場に持ち込むことが禁じられているもの、制止しなければならないものも、この関係には影響しているのです。
 おそらく、私の中で禁止されているものがこの場に出されることがなければ、この関係に支障はないでしょう。ただ、私はこの関係をとても疲れるものとして体験するかもしれません。
 問題は、禁止し、制止しているものが、統制が緩まり、表面に漏洩してしまうような時です。もしくは、この場に出すことを禁止しているのに、それをこの場に出したくなっている時などです。また、自分では表に出すことを控えようとしていながら、相手から強制的にそれを引き出されそうになっている時などです。
 それらは、要するに、禁止されているものが、表に出る場面ということでありますが、それは当人にとっても苦しい体験となり得るのです。そのような場面を当人は苦痛と嫌悪でもって経験することになるのです。この人は、そのような場面を今後は避けたいと思うでしょうし、そのような場面をもたらした相手をひどく恨むようになるかもしれません。

 さて、本節で取り上げたいのは、禁止されているものの表出であります。
 例えば怒りの感情があるとしましょう。これをこの場に持ち込むことは許されないことであるけど、それが表に出てしまう時には、禁止と表出感情とが衝突することになります。その時に、その表出はひどく婉曲的なものになるということです。
 この時、メッセージは婉曲的になり、両方の傾向が衝突する故にメッセージに矛盾を生み出し、メッセージに欠落部分が生まれるのです。言い換えれば、コミュニケーションに歪みが生まれるということです。
 コミュニケーションに歪みが生まれると、お互いに意思疎通が難しくなり、お互いに相手を理解することが難しくなってくるのです。夫婦問題のクライアントが困惑しているのがその部分であることも少なくありません。彼らが苦しむのは、そうした歪んだコミュニケーションであり、メッセージなのです。

 再び、私とあなたとの関係で考えましょう。
 あなたは私に何かを言おうとするけれど、それが直接私に言うことが憚られるようなものであるとすれば、あなたの表現は婉曲的になり、欠落した部分が生まれるかもしれません。
 私はあなたからよく分からない何かを受け取ったように体験するでしょう。分かるような分からないような、何か曖昧で、何か矛盾が感じられ、何かが欠落しているような感じを受けるでしょう。
 メッセージに矛盾があれば、私はメッセージに含まれる一方だけを受け取り、他方を切り捨てるということをするかもしれません。
 また、メッセージが曖昧であれば、私はそれを離隔づけることになるでしょう。私はあなたのメッセージにある欠落を私のもので補うということをするのです。

 欠落するというのは、あなたがある部分を言わなかったり、曖昧にぼかしたり、何かを仄めかすような表現をしたりするために生じるものですが、その際に、やはり私がこの欠落を補うことになります。補われるのは、あなたに属するものではありません。私は私に属するもので、あなたのメッセージの欠落を埋め合わせることになるということです。
 私がそこで補ったものは、あなたからすれば全く間違ったものであるかもしれませんし、あなたは自分がその部分を禁止したにもかかわらず、私が間違った理解をしたと言って私を責めることもできます。
 このようなコミュニケーションを続けていると、私とあなたはますます意思疎通が難しくなるでしょうし、お互いに理解し合うことが阻まれていくことでしょう。
 メッセージに曖昧さが伴うが故に、お互いに相手に対する思い込みや偏見、想像がこの関係に持ち込まれることになっていくでしょう。こうなると、私たちはお互いを正しく見なくなるかもしれません。
 私はあなたを見ていると同時に、私にあるもので補われたあなたを見ている、あるいは私の中にある像と重ね合わさったあなたを見るようになるかもしれません。私は「あなたではないあなた」を見て、それがあなたであると信じてしまうかもしれません。

 同じように、私はあなたから「私ではない私」を押し付けられるという体験をしてしまうかもしれません。あなたが「私ではない私」を私だと信じ、それを私に対して押し付けてくるとすれば、私はあなたに反発するか、「私ではない私」に積極的に同化していくか、そのどちらかしかなくなるでしょう。前者はDVなどの暴力として、後者は私の自己喪失へと至ることでしょう。私の個人的な偏見では、より健全な人は、自己喪失よりもDVの道を辿るでしょう。

 そして、それと同じことがあなたにも生じるかもしれません。ここでは、もはやお互いに自分自身であることが許されなくなっています。そうなると、この関係は、お互いにとって、自分が自分になるための闘争の場になってしまうでしょう。お互いに伸ばし合う関係ではなく、自分の存在をかけた闘争関係を築いてしまうことでしょう。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)