<7-1B>DV問題の諸前提(2)

<7-1B>DV問題の諸前提(2)

(離婚)
 DV問題は離婚で終わることが常なのです。カウンセリングを受けても受けなくても、当事者たちは離婚でこの問題にケリをつけるのです。しかし、その離婚の意味合いは、カウンセリングを受けた当事者と受けていない当事者とでは大きく異なるのです。その点はまた後で取り上げましょう。
 当事者たちは自分たち夫婦が上手くいくようにカウンセリングを受けようと決意するのですが、私からすると、かなり手遅れの段階でその決意をされるのです。当事者の一方に「別居エピソード」や「精神病エピソード」がある場合では、特にそうなのです。
 すでに離婚寸前の状態で援助を求められるケースが多いので、そこから離婚に至ったとしてもなんら不思議なことではないのです。時折、カウンセリングを受けると離婚すると考える人もおられるのですが、そんなことはないのです。カウンセリングを受けようと受けまいと離婚で終わるのがDV問題の常であり、彼らがかなり手遅れの段階でカウンセリングを受けるのも常であるのです。
 また、当事者が関係修復を求めるとしても、その修復された関係とは一方の願望であることも少なくないように思うのです。他方が目指しているものとは異なっていることも多いのです。ここに相違が生まれることになるのです。そうすると一方の願望達成を他方が妨害する形で動いてしまうということも生じるのです。それもまた関係が破綻する一要因であると私は考えております。
 いずれにしても、離婚というのは、関係の解消であり、一方である意味では関係の修復という一面があるのです。それに関しては後のテーマで述べていきたいと思います。

(見当違いの対策)
 ところで、なぜ彼らが手遅れの段階に至ってしまうかについて述べておきます。少々厳しい言い方をするかもしれませんが、ご容赦願いたく思います。
 当事者たちには自分たちの問題に何かと取り組んできた歴史があるものです。私からすると見当違いのことばかりをやっているのです。それも後々取り上げる予定をしています。
 何よりも、彼らは、自分に何が起きているのか、そして自分たちの間でどういうことが生じているのかきちんと理解することなく、ただ闇雲に解決だけ探しているのです。例えば、自分のことについて考え、相手のことについても考えてきたという人がいますが、その内実は単に調べていただけで、何も考えていなかったというような例も少なくないのです。
 問題をしっかり把握せず、何が真の問題であるかが見えていないのだから、その対策が見当違いなものになるのは必至であります。そうして、両者が見当違いのこと、間違ったこと、無関係のことに従事している間に、問題はますます進行して、どうにもならなくなり、もうダメだという段階に至って、ようやく専門家を訪れるわけであります。
 もっとも、そのような人たちばかりではないというのは重々承知しているのですが、けっこうそのような経緯のクライアントにもお会いするのです。

(発達的観点)
 さて、論点を戻しましょう。上述のように、かなり手遅れの段階で援助を求めてくるので、関係修復というのはかなり見込めないことが多いのです。実際、そこを目標にするとクライアントは多大な困難に遭遇することも少なくないのです。クライアントは、初めは関係修復を目指してカウンセリングを始めるとしても、越えられない困難、取り返しのつかない困難などがあるのを知ってしまうのです。そうしてその目標はクライアントの方が自ら放棄することもよく起きることなのです。
 また、暴力暴言を止めるということを目標とするわけにもいかないのです。前節でも少し述べましたが、これを暴力の問題に限定してしまうと必ず行き詰るからであります。
 従って、関係修復を目標にもできず、暴力の削除を目標にもできないということになれば、何が目標として目指されるのでしょう。ここに新たな観点が持ち込まれる必要が生まれるのです。
 私はそこで発達的観点を採用しています。発達とは成熟と言い換えてもいいのですが、私たちは一生成熟し続けるのです。私たちは完成されることなんてない存在なのです。だから、常に次の成熟段階が目指されることになるのです。クライアントの生が前進することが何よりも重要になるのです。目標となるのは、クライアントの生が前進することであり、成熟の過程が一段進むことであります。
 しかし、発達的観点を採用するとクライアントに厳しくなるという批判があるのも確かであり、いささか余談になるかもしれませんが、次にこの厳しさということを取り上げましょう。

(厳しさ)
 私は、個人的には、発達的観点を採用しようとしまいと、カウンセリングには厳しい一面が付随すると考えています。確かに私自身にも厳しいところがあるかもしれません。でも、それだけでカウンセリングが厳しくなるという意味ではないのです。
 だから、ここで一つだけ弁解させてもらいたいのですが、私が厳しいのではなく、また、私のカウンセリングが厳しいのでもなく、現実にはクライアントの状況が厳しいのです。そこだけは指摘しておきたいと思うのです。
 DVの問題で言えば、誰がどう見ても破綻寸前の関係なのに、それをどうにか修繕したいと望んで援助を受けるのです。私はそれに尽力するのですが、この状況では厳しい作業にならざるを得ないのです。
 また、一部のクライアントは、20代辺りのもっと若い年代の時期に取り組んでおくべきテーマを50代で取り組まなければならなかったりするのです。言い換えれば、もう後がないといった状況でカウンセリングを開始されるのです。崖っぷちのところでようやく援助を求められるのです。その厳しい状況で少しでもクライアントの望むものが実現されるように援助するとなれば、当然その援助には厳しさが付いてくるのです。

(治療とは)
 クライアントもそうした厳しい状況でカウンセリングをやっていくことになるのです。いくら崖っぷちに踏みとどまっていても、長くは続かないことが多いのです。それは非来談者の動きにも影響されることなのです。そうしてクライアントは崖から落っこちることになるのです。
 ここでカウンセリングから去るクライアントもあります。確かに、関係修復や暴力の削減といった観点からすれば、これは失敗に終わったと見做されるでしょう。でも、発達的観点に立てば、ここから本当の援助が始まるのです。
 崖から転落して、そこからクライアントは自分を立て直していくのです。それを目標にされるのです。それまではパートナーのためにしていたことを、今度は自分自身のためにするようになるのです。そうして自分の人生を推進していくのです。発達の水準を一つ上げていくのです。そういう方向に向かって踏み出していくのです。
 冒頭でカウンセリングを受けた人とそうでない人とでは離婚の意味が違うと述べましたが、それはこういうことなのです。DV関係というのは、当事者を人生の一時点に拘束し、発達の一水準に停滞させるという側面があるのですが、カウンセリングを受けていない側は離婚してもその一時点、一水準に留まり続けてしまうのです。そこから人生が展開していかないのです。もはや離婚はスタートでもゴールでもないのです。
 カウンセリングを受けている側は、離婚後に新たな人生を展開させていくことも少なくないのです。生が展開し、心的に躍動していくのです。
でも、それは過去を忘れるとか、なかったことにするとかいう意味ではないのです。ここは注意するべきところです。彼はこれまでの夫婦生活と離婚を引き受け、その時期を人生の一部として収容していくのです。
従って、DV問題の「治療」とは、クライアントの人生が展開し、成熟が達成されていくことにあるのです。

 以上、DV問題に関して、私が前提としていることを大雑把に列挙したのですが、これを踏まえて、ここからいくつもの諸テーマに入っていくことにしたいと思います。
 次に、DV問題で来談されるクライアントは関係が破綻寸前のところで援助を求められるということの根拠を述べたいと思います。
 それから、DV問題に関する私自身の経緯というものを記述することにします。私がどうしてそのような前提を持つようになったのかも示しておきたいと思うからです。煩雑だと思われる方は飛ばしていただいて結構であります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)