<6-7D>言語活動からみる境界例(4)~出口なし

<6-7D>言語活動からみる「境界例」(4)~出口なし


(「治療」は苦しい経験となってしまう)
「境界例」傾向の人たちの経験には痛々しいものがあります。それに、面接していると、私は彼らからとても寂しい感情を受け取ってしまうのです。
 そういう彼らに対して、できれば力になりたいと私は願うのです。ただ、彼らは、私のことを自分の味方であるように受け取らず、むしろ自分に力を行使しようとしている敵であるかのようにみなしてしまうことも多いのです。
 彼らがそのように受け取ってしまうのであれば、それはそれで仕方がないことかもしれません。非常に悲しい気分に私は襲われるのですが、それは私が耐えなければならないことなのでしょう。
 でも、彼らの体験することも事実であると私は考えています。カウンセリングやその他の「治療」は彼らにとってはどうしても厳しいものとなってしまうのです。残念なことだと思いますが、それは避けられないことであるようにも思うのです。
 というのは、彼らは人生の一地点に拘束され、囚われ続け、そこからどこにも動いていくことができないという状況があるためです。彼の人生はどこにも流れていかず、展開していかないのです。出口なしの状況で、彼らは同じところをグルグル回り続けているようなもので、この状況を改善していくためには、どこかに突破口を作っていかなければならなくなるからです。

(もっとも証明されたくないことが証明されてしまう)
 孤立は不安を高め、不安であることが孤立していることを強調することになります。孤立しているが故に不安は手に負えないほど肥大してしまい、自分の存在を揺るがすほどの脅威をもたらしてしまいます。自己を喪失してしまいそうな危機感にある時、人は自己確認する必要に迫られます。しかし、彼らの自己があまりに希薄である場合、確認する自己さえ定かではなく、そのため、自分の物語を自己確認の唯一の手段としてしまうのです。私はそのように考えており、それは前節までに述べてきたことでした。
 しかし、この物語は彼らの孤立を強める結果となってしまうのです。孤立して、不安に襲われ、改めて自分がどういう人間であるかを確認するのですが、その結果は常に彼が孤立しているということの確認となってしまうのです。
 自分は迫害されてきた人間だという物語を通して自己を確認する場合、結局、その物語は、周囲の人間がいかにひどい人間であり、自分にとって敵であるかということの証明にしかならないのです。彼はその物語を綴ることで、自分には味方も理解者もいないということを自分自身に証明してしまうのです。
 孤立から逃れようとして、連帯を求めようとする行為が、却って彼の孤立を深め、連帯を断ち切るように働いてしまうのです。彼はさらに深い孤立に陥るかもしれません。そうなるほど不安が彼を捕えて放さなくなるでしょう。
 さらに強い不安に襲われれば、より一層の自己確認が必要になるでしょう。彼はまた同じことを繰り返します。その物語しか自分を確認する手段がないように信じられているからですが、それをすることで彼はさらなる孤立を証明してしまうことでしょう。
 こうして、彼らが自分のために必要と信じて行う行為は、むしろ逆の効果を彼にもたらすことになるのです。彼は自分に証明されたくないことを、自ら証明してしまうような結果を招いてしまうのです。こうして悪循環の中に彼は身を置いてしまうのだと思うのです。

(物語は何で終わるのか)
 カウンセリングの場で彼らの物語を聴く場合には、時間が来たら終了できるのですが、彼らの身内の人たちにはそれが許されないのです。延々と彼らの物語を聴かせ続けられるという人も少なくないのです。
 私はいつも疑問に思うのですが、彼らが延々と物語を語り続けても、どこかで終わりが来るはずです。何がもたらされたら彼らの発話が終わるのか、知りたいと思うのです。そうは思うのですが、誰もそれを教えてくれないので私も困っているのです。
 ある夫は、妻の話に3時間でも4時間でも付き合わなければなりませんでした。彼の都合や予定にお構いなしで、妻がやってきては、いきなり話をはじめ、話が終わるまで彼は解放されないのでした。
 彼がカウンセリングを受けに来たのは、妻の延々と続く話をどう切り上げたらいいかということでした。彼は忍耐強い人だと私は思うのですが、妻の話を聞くのは苦ではないと言います。ただ、早朝とか深夜につかまって4時間も話されたのではこちらの身が持たない、せめてその半分で終えることができないだろうかという訴えだったのです。
 私は、奥さんがどういうタイミングで話を終えるだろうか疑問に思い、彼によく観察するようにお願いしたのでした。結局、彼には分からないということでした。
 妻は満足をして終えるのでしょうか。そのようには見えないと彼は答えました。4時間も話をしても、妻が満足しているようには見えないし、落ち着いた感じもあまりしないと彼は答えます。
 彼の観察は正しいと私は思いました。おそらく、妻は、絶望を体験して、そこで話すことを止めるのでしょう。これ以上この物語を綴っても何にもならないと、そのように思えた時に妻は終えるのだと思います。
 私の個人的な考えでは、彼の妻がこの結末を迎えないようにすることが必要だと思うのです。でも、たとえ絶望で終わる物語であっても、妻からそれを奪ってはいけないと彼は考え、私は彼の考えに即して対応を考えていくしかありませんでした。
 簡単にその後の経過を述べておきます。妻が延々と話をするときに、どういう情景が、どういう順序で語られるかを彼に記録するように求めました。すると、妻の物語にはある種のパターンと言いますか、サイクルがあるように思えてきました。
 最初は最近の何かなのです。それから徐々に過去の経験が語られます。そして、かつて妻にひどいことをした彼氏が必ず登場するようになるのです。この以前の彼氏のエピソードがひとしきり綴られると、今度は彼女の父親のことが話されるようになります。彼氏が先で、父親はその後という順番で、これが逆になることはなかったようでした。
 父親が登場すると、話は彼女の子供時代のことに移っていきます。そこまで行くと、彼女の話は終わりを迎えるようになるのでした。
 私は彼と話し合って、妻が話している時には、できるだけ機会をつかまえて、速やかに彼氏を想起させるように働きかける方法を考えていきました。この元カレは、彼女の父親や子供時代の経験を呼び覚ますための誘い水のような役割をしているように考えられるからでした。彼女の話にできるだけ早くその彼氏を登場させるわけであり、そこから父親や子供時代のことが語られればいいということでした。
 その後の彼の報告では、やってみると、けっこう上手くいったということでした。時間が半分になったそうです。しかしながら、私にはまったく満足のいく仕事ではなかったと感じています。結局のところ、4時間後に訪れる妻の絶望が、2時間後に来ることになっただけなのです。何も変わっていないのです。
 この夫の例を持ち出したのは、出口なしの状況をそのままにしておいて、手段や方法だけ考えても、なんら望ましい結果をもたらさないということを示したかったからでした。
 私は、「境界例」傾向の人たち(だけに限らないかもしれませんが)は、一つの状態に留まり続けてしまい、どこにも動き出せず、一つ所を循環し続けていると考えています。
 もちろん、ある程度の時間をかけて行わなければならないことですが、出口なしの状態に出口を作っていくことが援助の第一歩になると、私はそのように考えているのです。彼らにとっては、それは辛い作業となってしまうかもしれませんが、必要なことだと私は考えているのです。それに関しては後ほど取り上げようと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年7月28日公開