<6-7C>言語活動からみる境界例(3)~不安と孤立

<6-7C>言語活動からみる「境界例」(3)~不安と孤立


(不安は自己確認を促進する)
 前節では「境界例」傾向の人の語る物語がそのまま彼自身であるということを述べました。このことと、前々節で取り上げた不安の問題との関係を本節では考察します。
 私たちは不安という感情を経験します。「恐怖症」は特定の対象があるのに対し、不安には対象がなく、それが不安と恐怖の違いだと考えられています。不安には明確な対象が欠けていますが、ただそれが漠然としているのであって、必ずしも対象がまったくないというわけではありません。
 不安の対象は常に自分の存在に関わる領域の事柄であります。存在を揺るがすような何かに対して不安感情が生まれるのです。不安に対して、私たちはどのように対処しているでしょうか。
 ある実験があります。まず被験者を二つのグループに分け、別々の部屋に集めます。そうして実験の説明をするのですが、一方のグループでは不安要素のまったくない説明をします。他方は不安要素の高い説明をします。それぞれの説明をして、実験の実施までの待機時間に両グループの行動にどんな違いが生じるかを観察するという実験なのです。
 簡単に結果を述べますと、不安の高いグループでは、被験者どうしの接触行動が増えたということでした。お互い見ず知らずの他人どうしなのですが、お喋りをしたり、距離を縮めたり、触れたりといった行動が、もう一方のグループ以上に多く見られたということでした。
 おそらく、私たちの誰もがそういう傾向を有しているでしょう。つまり、不安に襲われたときには他者を必要とし、触れあい、共有しあい、自分を確認しあいたくなるでしょう。意識していなくても、私たちは不安な時はそういうことをしているものだと思います。

(孤立との悪循環)
 ここに孤立の問題が絡んでくると、事態は悲劇的になります。不安に襲われても、共有しあい、確認しあう他者が存在していないということになるからです。孤立は不安をさらに高め、不安が孤立をさらに強調してしまうことになり、両者の間には悪循環が生まれると私は考えています。
 また、孤立しているが故に、つまり、それを誰とも共有しあえず、支えあい、理解しあえる相手が存在しないために、不安はその人の中で肥大していくことになるでしょう。初めは小さな不安であっても、それは誰とも共有しあえないので宥められることがなく、猛威を加えていくことになるでしょう。
そのことに加えて、その人の不安耐性が低い場合には、不安は瞬く間に増大していくことになると思います。
 こうして不安は耐えられないほど肥大していくとします。この不安は自分の存在基盤を揺るがすものとなるでしょう。それは自己の存在基盤を揺るがし、自己の消失を導くような体験となってしまうことでしょう。
 もし、自分が失くなってしまいそうだとか、自分が壊れてしまいそうだと体験されると、その人は自分を確認せずにはいられなくなります。自分が失くなりそうだからこそ、自分という存在の確認が必要とされるのです。
 自分を確認する手段はいろいろあると思います。人によって、自分なりの手段を持っているかもしれません。誰かに自分のことを聴いてもらうというのも自己確認の手段であります。「境界例」の人たちは、自分の物語を聞かせるということで自分を確認するのだと私は考えています。

(物語の行く末)
 自分自身が不確かであるために、不確かな自己が揺るがされるような状態にあるがために、彼らは自分の固定化された物語を繰り返し語らずにはいられなくなるのだと思います。なかば「強迫的」に繰り返される物語は、あたかも「これが自分だ」ということを自他に言い聞かせようとしているという印象を私は受けることがあります。
 本節のテーマから少し飛躍するのですが、この物語はどのような経過を辿るかという一つのモデルを示そうと思います。
 もし、彼の自我が強化されれば、彼は自分自身と自分の物語との間に距離を作り出すことができるようになるでしょう。
 例えば、自分は迫害された人間だという物語を綴る「境界例」傾向の人があるとしましょう。私は彼が迫害された事実を認めないわけではありません。彼は現実にそういう不幸な経験をした人だと思うでしょう。ただ、その経験は彼の一部であるはずだと私は信じています。
 もし、彼が自分の「被迫害者」物語と距離を置くことができるようになれば、きっと、彼もそれが自分の一部であって、自分のアイデンティティや経験のすべてではないということがわかると私は信じています。
 そして、彼自身と彼の物語との間に距離が生まれ、彼がその距離を体験していくことができれば、彼は自分が受容されていることと物語が受容されていることとの差異が見えるようになるでしょう。自分が大切にされるという経験と、物語が大切にされる経験との違いが分かってくるようになるでしょう。
 そうなると、私たちは彼の物語を検証していくことが可能になります。この物語についてお互いに考えていっても、そのことが彼自身を脅かすことがなくなるからです。もし、私が彼の物語の何かに疑問を投げかけたとしても、彼自身は傷つくことがないでしょう。万一、彼が傷ついたとしても、彼の中の無傷の領域が彼を支えることでしょう。
 もちろん、彼はそれまでの彼の物語を捨てる必要はないのです。変える必要もないと私は考えています。でも、彼はもはやその物語にしがみつく必要がなくなっています。彼は、もっと別種の物語を綴るようになるかもしれませんし、同じ物語に違った意味系列ができているかもしれません(追記1)。いずれにしても、この物語は、彼を苦しめるものではなくなり、自己確認の唯一の手段でもなくなっていることでしょう。
 彼は迫害された人だったかもしれませんが、それが唯一の彼ではなくなっています。不幸な体験を彼はしてきたけれど、もはや、彼は不幸な彼ではなくなるのです。彼は自分の不幸を手放すことができるのです。

(追記1)
 うっかりして説明しておくのを忘れましたので、この場で追記させてもらいます。
 物語とは、エピソードをいくつかピックアップして、それをある意味の系列でまとめたものと考えることができます。同じエピソードであっても、その意味系列が変わることもあります。その場合、それはまったく違ったストーリーになります。
 例えば、ある人が高校時代を振り返って話しています。「入学してすぐにいじめっ子に目をつけられ、3年間地獄でした。部活もしていましたが、3年続けても、一度も勝てませんでした。大学こそはと思い、頑張ったけど、志望校には入れず、一年浪人しました」
 この物語は、この人の失敗談であるように聞こえると思います。彼は不遇なことばかりの3年間を話しています。それはそのような意味系列で各エピソードがつながれているからです。
 これを、いじめっ子に目をつけられ、いじめられてばかりだったけど、3年間、学校を休まずに通い続けた。部活でも一度も勝てなかったけど、最後までやり通した。志望校にも受からなかったけど、一年浪人して、遅ればせながら志望校に合格したという話になれば、これは取り上げられているエピソードは同じでも、さっきとは違った種類の物語になることが分かるでしょう。彼は成功した高校生活をここでは語っていることになります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)





平成28年7月28日公開