<6-7B>言語活動からみる境界例(2)~物語

<6-7B>言語活動からみる「境界例」(2)~物語


(「私」を基盤に生成される「物語」)
 私たちが自分の経験を話す時には、最初にこういうことがあって、それが次にこうなって、最後にはこんなふうになったというように、あたかも物語のように語ります。言い換えると、私たちが自分のことを話すというのは、自分の物語を紡ぐ作業をしているのです。
 物語というのは、エピソードをピックアップして、それを意味系列的に、または時系列的につなげていき、一つの体系にまとめられているものです。どんなエピソードがピックアップされるかで、またはそれぞれのエピソードがどんなふうにつなげられているかで、物語の様相が変わってきます。
 ブログやコラムなんかで私が私の経験を話す時、やはり同じような作業をしている自分に気づきます。ただ、どんな体験を選択するかで、私の物語は成功談であったり失敗談であったり、滑稽談となったりします。私はその時々で私の物語のジャンルを決定しているような感じがします。
 多くの人も同じような感じではないかと思います。最初に「私」という基盤があって、その基盤からいろいろな物語が作られているのではないかと思います。「境界例」にあっては、これが逆転しているという印象を受けているのは私だけでしょうか。

(最初に物語ありき)
「境界例」傾向の人たちにあっては、最初に物語ありきなのです。はっきりした物語が最初に出来上がっていて、ピックアップされるエピソードは異なっても、毎回、同じ物語が語られるのです。自分の物語が基盤にあって、どんな体験もその物語に収斂していくような印象を受けるのです。
 例えば、ある人は自分が迫害されているという明確な主題を有しています。この人がどんな体験を話す時でも、必ずこの主題に即して語られるか、最後にはこの主題に行き着いたりするのです。親のことを話しても、親から迫害されたストーリーになり、友人のことを話しても友人から酷い目に遭ったという話に落ち着き、過去の先生のことを話すと先生から意地悪されたとかいった話に行き着き、楽しかった思い出もすべて自分が騙されたといった結末を迎えたりするわけです。
 彼らの物語はあまりに固定されており、変更されることはなく、どのようなエピソードもその筋書きに沿うようにできているのです。
 毎回、「みにくいアヒルの子」の話をしてくれた人もありました。自分は醜くてみんなからいじめられているけど、本当はかわいいので、みんなが嫉妬して、意地悪しているんだという話を繰り返していました。エピソードは異なっても、すべてそういう話になっていくのでした。

(自己と物語の同一化)
 一つの固定した物語に彼らが固執するのは、彼らの存在基盤があまりに脆いためであると私は考えています。自分というしっかりした基盤からさまざまな物語が綴られるのではなく、その基盤が脆いために特定の明確な物語にしがみつかなければならなくなるのだと思います。
言い換えれば、自分がはっきりしないために、はっきりした物語を必要とするのだと思うのです。その時、この明確な物語は、自分から発せられるものではなく、まさに自分自身そのものなのです。
 物語が自分自身であるために、彼らにとって、この物語に変更を加えるような作業はすべて脅威となってしまうのだと思います。少しでも別な角度に光をあてられることでさえ、多大な恐怖心を呼び起こしてしまうのだと思います。この物語を失うことは、そのまま自己の喪失を意味してしまうのだと思います。
 もし、臨床家や周囲の人が、彼のこの不幸な物語から彼を救い出したいと願っても、彼にとっては新たな迫害エピソードになってしまうのです。こうして、善意から救出しようとした人々でさえ、彼らの中では自分を迫害する「敵」として位置づけられてしまうのだと思います。

(儚い救いにしがみつくイメージ)
 私も本当にお手上げに感じることがあります。そんな時、私には、川で溺れ、一本の杭にしがみついている人というイメージが浮かんでくるのです。その杭を手放して、こちらの救助艇に移ってもらおうと手を差し伸べても、その人は頑なに杭にしがみついているというイメージであります。この人にとっては、この杭を手放すことの方が危険だと感じられていて、救助艇で助けられるよりも、この杭にしがみついたままでいる方が安全だと感じられているのです。そんなイメージが思い浮かんでくるのです。
 杭にしがみついているこの人にとっては、救助艇の人たちは自分から杭を奪おうとする悪人に見えることでしょう。救助艇の人たちがどれだけ失意を経験しても、杭にしがみついている人は自分の方が正しいことをしたと信じることでしょう。
「境界例」の人たちの不幸な話を繰り返し聞かされながらも、なんとか救いの手を差し伸べようとした人たちもいるのではないかと思います。臨床家に限らず、家族や友人といった周囲の人たちでさえ、そういうことを試みた人がいると思うのです。しかし、助けようとした人たちは、結局は断念するか、彼から去っていくしかないのです。こうして彼は新たな迫害体験を自分の物語に付け加えてしまうのです。

(要点~介入は自己の侵犯)
 少しまとめておくことにします。
「境界例」傾向の人は、ある明確な物語を繰り返し話します。それは常に固定された物語であり、エピソードは異なっても同じ物語に収まっていきます。
 さらに、この物語において、当人ははっきりした役割を持っています。つまり。物語の中で強固なアイデンティティを有しているのです。この物語において、彼は「被害者」「被迫害者」「醜い人間」「追放された人間」「極悪人」といったアイデンティティを明確に持っているのです。
 それは、あたかも、自己感覚が希薄で、アイデンティティが不確かであることを補償しようという試みであるようにも思われます。自分がはっきりしないので、「はっきりした自分」の登場する物語が必要であり、且つ、それにしがみつかないではいられないように私には思われるのです。
 こうして、彼が彼の物語を語るのではなく、物語の彼が彼のアイデンティティなのです。物語が彼自身なのです。彼の語る物語は、そのまま彼自身なのです。
 従って、ある「境界例」傾向の女性が、「私の話を口出ししないで、黙って聞いてほしい」と私に頼む時、それは「そのままの私を受け入れてほしい」という願いを意味しているものであることが理解できるのです。物語と自己とが一つになっているので、物語を受け入れられるかどうかは、そのまま自分が受け入れられるかどうかという意味になるのだと思います。この時、彼女にとって、物語を受け入れてもらえるかということが、最重要なことだったのだと思います。
 物語が当人自身なので、聞き手のあらゆる介入は、自己の領域に直接影響するのです。単にその話に言葉を挟まれたという意味に収まらなくなるのです。彼にとっては、自己の領域を侵犯されるような体験となるのだと思います。
「逆転性」の項目で述べたように、話に介入してもらえることが彼らにとっては好ましい体験とならないのは、上記のためだと思います。この物語は彼自身であり、介入は自己に侵入してくる脅威となり、それによって自己が掻き乱される体験となってしまうのだと思われます。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)





平成28年7月28日公開