<6-7A>言語活動から見る境界例(1)

<6-7A>言語活動から見る「境界例」(1)


(言語活動には個性が出る)
 私たちは日々の生活で言語に携わる活動をしています。読む、書く、聞く、話すなどの活動をします。これら言語に関する活動を総称して言語活動とここでは表記することにします。
 言語活動は日常のあらゆる場面で見られます。メールのやりとりをすることも、ちょっとした伝言を残すことでさえ、すべて言語を使用しています。火傷をした時に「熱い!」と言ったりすること、つまり知覚を言語変換することもあります。また、私たちが何かを考えるときには言語的に行っています。そうした内言語活動もやはり言語活動なのです。
 私たちの生活は言語活動抜きにしては考えられないものであり、言語は常に私たちに密着しているものです。
 本節で取り上げるのは、そうした言語活動のうち、主に「話す」ことに関するものです。言語活動は生活体験と結びついており、人によって生活経験も異なり、パーソナリティも異なってきますので、言語活動には各人の個性が表れるようになります。つまり、その人特有の話し方や言い回しといった傾向が生まれるわけです。
「心の病」もまた、その人の経験やパーソナリティと深く関係していますので、それらは言語活動の差異として見られることもあります。例えば、「うつ病」の人は感情に関わる表現をしなくなるとか、「強迫」では穿鑿に関する言語活動が増えるなど、その「病」に特徴的な言語活動が見られることもあります。
 本節では、「境界例」傾向の人たちの言語活動を考察することにします。言い換えると、言語活動という面から見た場合、「境界例」の人たちにはどのような特徴がみられるかということを考察することにします。
 ちなみに、本節で述べることは、あくまでも私の観察や個人的経験から得られた資料に基づいていますので、偏向が含まれているものと思います。その点をご銘記の上、お読みいただければと思います。

(二種類の文型)
 さて、私たちが使用する文章には、大きく分けると二つの種類があります。ここではそれを「報告文」と「体験文」というように名づけようと思います。
「報告文」とは、何かを報告する時に用いられる文型であります。もっとも典型的なのはニュースの原稿や新聞の記事などに見られる類の文章です。そこでは5W1Hが明確に記述され、事実関係が正確に伝わることが目指されます。従って、「報告文」の効果は、事実関係を相手に伝えるということにあり、受け取った相手は出来事を正確に理解できるという点にあります。
 一方、「体験文」というのは、個人の体験を記述するものであり、エッセイや紀行文などに見られる文章です。そこでは5W1Hが明確に示されなくても、話者の個人的体験が描かれれば十分なのです。事実関係を伝えることよりも、個人の体験を伝えることが主眼であり、読み手はそれによって感情を動かされたりします。従って、「体験文」の効果は、受け手に感動を起こすことであり、共感や共鳴をもたらすことにあります。
 少し別の観点から述べれば、「報告文」では相手に伝わるように論理性が求められます。論理的に叙述することが求められます。「体験文」の方では、それほど論理性に拘らなくても通用するという側面があるように思います。
 これら二つの種類の文章を押さえた上で、現実の私たちの発話には両方の文章が含まれているということを理解しておきたいと思います。例えば、「今朝、駅に向かう途中、一軒の住宅の花壇に花が咲いていた。それを見て、きれいだなあと思った」というような発言があるとします。この発言の前半は「報告文」のスタイルで述べられており、後半は「体験文」で述べられていることになります。
 私たちが自分の体験を話す時でも、両方の文型が使用されており、組み合わされているのです。

(「体験文」要素の過剰)
 さて、「境界例」傾向の人たちの発話スタイルですが、やはり個人差はあるものです。それでも大まかな傾向として、彼らの発話には「報告文」要素が極端に少なく、「体験文」要素が大部分を占めているという印象を私は受けています。
「報告文」要素が極端に少なく、「体験文」要素が大部分を占めるということは、先述の効果という観点に照合すると、受け手は次のような体験をすることになります。つまり、相手の話を聞いてきたけど、何があったのか事実関係が十分に把握できず、不明瞭な個所が多く、それでいて感情的にはひどく動かされるといった体験をすることになると思います。
 私も経験しますし、家族の方々、周囲の人たちからも、彼らの話すことを聞いていると、何がどうなったのかよくわからないけど、聞き終わってから感情が穏やかでなくなったという感想を伺うこともあります。
 私はそういう体験が何によってもたらされたのかが、最初は分かりませんでした。ある人の発話を調べていく中で、上記の傾向に気づいたのでした。彼らの話は5W1Hが欠けていたり極端に少なかったりして、さらには相手に伝わるように話が論理的に構成されていないのです。
 あくまで私の個人的経験ですが、彼らの話は「報告文」要素が少ないので、わかりにくいのです。そのために、こちらも相手が何の話をしているのかを理解しようとする姿勢が強化されるのです。それが却って、相手の話に引き込まれ、巻き込まれるようになるのです。その時には、相手の話に距離が置けなくなる感じがします。最後には、具体的な情景も時間的な順序もわからないけど、感情要素だけはひどく伝わってきて、それが距離を置くことができていないために、私の中に強烈に根付いたような感覚に襲われるのでした。

(不安状態における発話)
 ただ、次の点は押さえておく必要があると思います。「境界例」傾向の人にそのような発話スタイルが目立つと言っても、それがそのまま「境界例」傾向の人たちの特徴を表しているとは限らないという点です。当人の状態によっては発話スタイルも異なってくるでしょう。
 私たちも彼らと同じような発話スタイルになることがあります。不安や緊張に襲われている時には多少なりともそういう話し方になるものです。強い不安のために冷静さと論理性を失っていて、そのために事実関係を示す情報が極端に欠けるのです。いわゆる「不安性障害」に該当するような人の話を聞くと、このことがよく理解できるのです。
 では、「境界例」傾向の人たちが、そのような発話スタイルで話す時、あるいはそのような話し方しかできない時というのは、やはり彼らも強い不安に襲われているのだろうかという疑問が浮かんできます。私は基本的にはその通りだと思います。その点に関しては、「境界例」であろうと「不安性」であろうと、「健常者」であろうと、違いはないと考えています。
 あまり不安に襲われていない時では、「境界例」傾向の人たちもけっこう疎通性があるものだと私は感じております。普通にコミュニケーションが可能なのです。ただ、不安に襲われていない時には、人を避けるという人もありますし、無口になったり自分を隠したりする人もあります。
 つまり、不安に襲われている時ほど、彼は多弁になり、人に話を聞いてもらいたいと思うので、周囲の人はそういう発話スタイルの彼に接する機会が多くなるのだと私は考えています。
 発話スタイルは似ているけど、「不安性」と「境界例」とでは明確に異なる部分があります。あくまで私の個人的印象ですが、「不安性」においてはその発話内容が散漫になることが多いのに対して、「境界例」では固定された主題が話されるように思います。次節では、この点について考察することにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年7月28日公開