<6-6F>境界例に見る逆転性(6)

<6-6F>「境界例」に見る「逆転性」(6)


(臨床場面での逆転)
 「境界例」傾向の人たちには、通常とは正反対のことが起きるということを述べてきました。こうした「逆転性」が生じるのは、彼らが多用する「原始的防衛機制」に起因するものでありますが、そのことは別項で取り上げることにします。
 この「逆転性」のために、彼らは周囲の人と関わることが困難になったり、周囲もまた彼らとの関わりで困惑してしまう場面が増えるのです。そして、彼らの孤立化を促進してしまうことにもなるのです。
「治療」やカウンセリングの場面でも、各種の「逆転性」が確認できます。すでに述べたように、通常なら好ましいこととして体験される医療サービスが、否定的な体験となってしまったり、「良くなってきている」とか「前進している」という承認が彼らを苦しめる言葉になったりするのです。
 同じように、通常なら「良くないこと」と評価されるような事柄が、彼らにあっては「良いこと」である場合もあります。
 例えば、「治療」やカウンセリングが長期に渡る場合、通常ならこれは「治療」がうまく行っていないと評価されるところですが、「境界例」においては、「治療」が長期間継続することは「治療」の成功を意味しているのです。彼らは安定した人間関係を、臨床家との間でも、確立できないからであります。「治療」の長期化は、彼らにとっては「治癒」の指標ともなるのです。

(自由と制限)
 カウンセリングなどの場面でも、クライアントが自由を保証されることは、通常なら好ましいこととして体験されるでしょう。でも、彼らは自由であることに苦しみ、実は、制限されることで安心するのです。最初のうちこそ、制限に対して反発するのですが、彼らは自由よりも制限の方に適応しやすいのです。これは非構造的な心理テストの観察例からもはっきりしていることです。
 ある男性は妻の浪費に苦労していました。この妻の浪費は、彼女に何一つ満足をもたらしていないように見受けられたので(つまり、口唇期性の貪欲であるように思われたので)、私は彼に妻の小遣いを制限するように指示しました。彼は、それは妻を拘束することになるのではないかと、そういうことはしたくないと言い張ったのですが、試しにやってみましょうと提案すると、彼はその通りにしました。妻は、最初こそ反発しましたが、最終的に、妻自身がこの制限に感謝するようになったのでした。
 自由であることは、彼らには恐ろしいことなのです。囲いのある砂場に子供をおいて、ここで自由に遊んだらいいよと言うと、この子は安心して遊べるでしょう。でも、広大な砂漠にこの子を置いて、ここで自由に遊んだらいいよと言われたら、おそらく、この子は安心して遊べないでしょう。遊ぶことができても、囲いのある砂場よりも狭い範囲でしか遊べないでしょう。自由の空間に対して、自分があまりにも小さ過ぎるからです。とても不安を喚起されてしまうのです。
 カウンセリングの場面では、「自由にお話しください」は彼らを困惑させるのです。ところが、「この件について自由にお話しください」とある種の制限をしてあげると、彼らは流暢に話せたりするのです。
 当人も周囲の人も、時に、こういう制限は良くないことだと考えてしまうことがあるようです。それは「拘束」と捉えられることもあります。拘束というのは、ある一つの事柄に縛り付けるという意味合いがあると思うのですが、ここで言う「制限」とは、「ここからここまでの範囲で自由にしていい」という意味合いのことであって、決して「拘束」と混同されてはならないと私は考えています。

(改善が苦しい)
 さて、臨床場面での「逆転性」で、最も注意しなければいけないのが、彼らが「良くなると苦しむ」という逆転であります。
 苦しい状況から、改善の兆しが見え始めると、その人は安心感が増したり、気力が回復したりするものですが、「境界例」傾向では、そのようにはならず、しばしば苦しいとかしんどいと訴えるようになります。言い換えれば、彼らが「治療」場面で「苦しい」とか「しんどい」と表現するときは、(常にそうであるとは限らないけど)本当は改善に向かい始めているサインであることも多いのです。
 ある男性は周囲のあらゆる人のことを毒づいていました。カウンセリングの場面でも、延々と誰かの悪口や非難を展開し続けていました。その都度、私は「あなたがそんなに怒らなければならないのが分からない」と伝えてきました。そんな面接が何回も続いた後、機会を見つけて、私は「あなたの怒りは何か二次的な感情のような気がする」と言ってみました。彼はその時はよく分からないようでした。
 しかし、徐々に見えてくるのは、彼の怒りは、彼の孤独に対する反応であるということでした。周囲の人から切り離されたように感じ、彼は孤立してしまった感じを体験していたのですが、それを怒りの感情に転嫁していたのです。つまり、孤独に目を向ける代わりに、それを怒りでごまかしていたのです。
 徐々に、彼は自分の孤立感情に目を向けるようになりました。この時から、彼はこのカウンセリングがとても苦しいものになったと表明しました。
 今まで目を向けてこなかったことに目が向くようになる、これは自分が一つはっきりする体験であり、通常は、この体験は当人に安定をもたらすものなのです。しかし、彼の自我はそれに適応できないのです。この体験は、彼に安定をもたらすどころか、苦痛に満ちた体験となってしまうのでした。
 結局、彼は「辛い」と言って、カウンセリングを止めてしまうのです。彼が自分の孤独に目を向けている間、彼は怒りの感情に駆られることがなくなっていたのでしたが、彼はこの前進をかなり否定的に捉えていました。
 彼らは、改善や進歩を苦しい体験として受け止め、これに耐えられず、これまでの成果をすべてフイにすることもあります。彼らがもう少しでもそれに耐えられたらと私は思うのです。せっかく前に進んだかと思うと、彼らは平気でこれまでの努力を元の木阿弥にしてしまうのです。こうして、彼らは「停滞性」の中へ戻ってしまうのです。

(終わりに)
 さて、「逆転性」については、本節で一旦筆をおくことにします。後は、個々の事例記述などにおいて、それが見られた際に指摘することにします。
 個人的には、こうした「逆転性」はとても大きな「問題」であると捉えています。この「逆転性」のために、彼らは周囲との溝を広げてしまい、周囲から自分が浮き立ち、切り離される体験を繰り返してしまい、孤立化を促進してしまうと考えています。人間関係でも「治療的」な関係でも、「逆転性」は妨害的に働いてしまうのです。
 すでに述べてきたように、彼らの「自己治療」の試みは「自己棄損」となり、大切にしてくれた人を恨むようになり、愛してくれた人を破壊し、愛してくれない人たちにしがみついたりしてしまったりするので、彼らの不幸や苦難が増してしまうことになるのです。

(文責:寺戸順司 高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年6月9日公開