<6-6E>境界例に見る逆転性(5)

<6-6E>「境界例」に見る「逆転性」(5)


(求む、不健康人)
 「境界例」傾向の人たちは、「通常」なら望ましいことであるはずのものが、望ましくないものとして体験されてしまうのです。これを「逆転性」と呼んでいるわけですが、この傾向のために、彼らは自分を苦しめることになってしまうのです。
 私が思うところでは、「境界例」の根本的な「問題」の一つは、望ましい対象や望ましい体験が維持されないということにあると考えています。「良い」ものが「良い」ものとして、「良い」ままの状態で心の中に保持されないのです。これは「良くない」ものとして体験されたり、「良くない」ものに変形されてしまったりするのです。
 当人にとって望ましい「治療者」を彼は嫌悪し、忌避するのです。私も何度もそれを経験しました。私が「健康そう」だからダメだと評価されたり、「真面目」だからイヤだと言われたり、ずいぶんいろいろ評価されたものです。自分の「治療者」が健康そうであることや真面目そうであることが、どうしてそんなに否定的評価をもたらすのでしょう。通常なら望ましいこととして体験されるはずではないでしょうか。
 ある母親は娘にカウンセリングを受けてほしいと願っていました。実は、娘の方も受けようと考えていました。しかし、娘は、肢体不自由のカウンセラーでなければいけなくて、身体的に障害を抱えているカウンセラーを探していました。
 同じような例で、視覚障害のカウンセラーでなければいけないと言う娘さんもおられました。目の見えるカウンセラーではダメだということです。自分を見られるのがイヤだということなのでしょうが、むしろ否定的な対象選択の傾向がこの人には認められていたので、その文脈で理解する方が適しているように思います。
 彼らは実にしばしば「不健康」そうな人たちに接しようとします。「治療者」であれ友達であれ、「健康」な人たちを敬遠しようとします。これも「逆転性」の一つとして私は捉えているのですが、同一性拡散の一つの「症状」として私は考えています。

(愛憎に関する逆転)
 否定的な対象選択をしてしまうのは、同一性の「問題」を抱えているためであります。そのために、愛は憎悪として、憎悪は愛として体験されてしまうのだろうと思います。彼らは愛されると苦しみ、憎悪を向けられると活き活きしたりします。
 20代の若い女性でしたが、彼氏ができて初めてのデートをしたと報告しました。ちなみに、この女性は某病院で「境界例」の診断を受けていました。
 デートはどうだったと私は尋ねます。彼女は最悪のデートだったと言います。別れしかなかったと言います。何か別れの予感がしたのでしょうか、私は疑問に思います。彼女の話では、別れ話なんて一つも出なかったそうです。ただ、彼女の中でいつかこの人とも別れるのだろうという観念しか浮かんでこなかったようでした。それは、どんな思いだったのでしょう。彼女の話では、この人と一緒になっても、この人が先に亡くなるかもしれないとか、そんなことばかりを考えてしまったそうでした。そして、デートが終わってから、彼女は彼のことを思い続けるのでした。
 少し、詳しく見ていきましょう。それは本当は楽しいデートだったはずです。不幸な兆しは何もなかったようです。彼も20代の若い男性で、健康な人のようで、少なくとも寿命に関わるような大病を抱えているわけではありませんでした。しかし、彼女は恋人と一緒にいる時に、別れているのです。そして、恋人と一緒にいない時に、一緒になろうとしているのです。ここに「逆転性」が見られるわけです。
 愛する人と一緒の時に別離を経験してしまい、一緒にいない時に一体になろうとしてしまうわけです。また、愛は憎悪であり、憎悪の中に愛を見出すというような例もあります。
 自分のことを愛してくれているから彼が殴るのだと体験している女性もありました。本当はそれは愛ではないはずです。しかし、彼女はそう体験してしまうのです。この女性は、過去に優しくしてくれた元カレ、一度も彼女に暴力を振るわなかった元カレのことを、「下心があって、そのために優しくしているのが見え見えだった」などと言うのです。彼女は愛憎が混乱しているように私には思われました。
 普通に愛されることは恐ろしい体験であり、愛情が撤退されると必死になって愛情を引き出そうとしてしまう人もあります。その人は普通に愛される人だったと私は信じています。そして、周囲にはその人に愛情を示してくれている人たちもいるのです。でも、この人は、周囲に迷惑をかけ、彼らの愛情を踏みにじり、彼らが愛情を撤退したくなるようなことを繰り返すのでした。そうして、現実に周囲が愛情を撤退すると、今度は、彼らから愛情を引き出すために、しがみついたり、甘えたり、さまざまな試みをするようになったのでした。

(愛の無効化)
 彼らの中には、親に愛されなかったとか、親の愛を知らないと訴える人も少なくありません。親のことはここでは触れないことにします。
 彼らからこの部分を誤解されてしまい、いつも残念に思うのですが、私は親の愛というものをあまり重視しないのです。確かに、その人は親に愛されなかったかもしれません、その人はそれこそが根本問題だと認識しているかもしれません。それはそれでいいでしょう。ただ、親に愛されなくて、どうして今でも愛されないまま留まり続けているのかということ、親以外の愛をどうして学んでいけないのだろうかということ、そちらの方が「問題」であると私は考えています。
 「愛される」ということが、体験として所持されていなくても、その後の人生において、それは「愛されていたのだ」と知っていくことはできると私は考えています。愛情を注いてくれた対象が親であろうと他の人であろうと、愛されたり、大切にされたということを学んでいくことはできるはずであると、そう私は考えています。
 どれほど「重症」の「境界例」であっても、その人の過去には、その人のことを大切にしてくれた他者が見つかるものであります。その人に良くしてくれた他者たちの存在があるのです。彼らはそれを無効化してしまうのです。そこが勿体ないように思うのです。
 中学時代にとても心配してくれて何かと気にかけてくれた担任の先生を、恨み続けているという人がいました。彼とその先生との間に何があったかは分かりません。しかし、彼は、その先生が彼に何かと良くしてくれた記憶をすべて自分から排除してしまっているのです。彼は誰からも大切にしてもらえないと嘆いていましたが、本当は大切にしてもらえた経験をしているのです。ただ、彼がそれを自分から切り離してしまっているのです。本当は、それは切り離されるべきではなく、大切に保持されなければならないものではないだろうか、そう私は思いました。
 愛情を注いでくれる人に対しては、その愛が本物であるかどうかを「攻撃」でもって試さずにはいられなく、憎悪を向けてくる人に対しては自分が愛してもらえるかを「しがみつき」でもって確かめなくてはいられない、こういう「逆転性」があるように思います。
 自分が普通に愛され、大切にされている一人の人間であると認識することは、通常なら望ましいことであるはずなのに、彼らにはそれが恐ろしいこととなり、愛され、大切にされた経験は、通常なら大切に保持されるはずなのに、彼らはそれを無効にしてしまう、これもまた「逆転性」であるように思います。
自分が愛された、大切にされた、このような認識をすることは、おそらく、自分が根底から作り変えられるような体験と映ってしまうのだと思います。これらの体験や認識は今の自分に適しないように思われているのかもしれません。そして、自分が作り変えられることを回避したくて、一つの認識にしがみつかなければならなくなるのかもしれません。

(文責:寺戸順司 高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年6月9日公開