<6-6D>境界例に見る逆転性(4)

<6-6D>「境界例」に見る「逆転性」(4)


(自己治療の試み)
「境界例」に関しては、通常と「さかさま」のことがよく生じます。それに手を焼くことが私にはよくあるのですが、通常なら「良いこと」「望ましいこと」であるはずのものが、彼らには「悪いこと」「望ましくないこと」と体験されてしまうのです。
 そして、彼らにとって「良いこと」「望ましいこと」と思われていることは、本当は「良くないこと」であったりするのです。特に、彼らが自分を良くしていくために行う「自己治療」の試みは、当人にはそれが正しいものと体験されているのだとしても、しばしば「非治療的」であり「反治療的」でさえあるのです。
 彼らの「自己治療」の試みが「自己破壊」である例も見られますし、「治療」的行為は彼らには「自分が壊される」営みとして映じたりもします。

(「治癒」が「非治療的」になる)
 ある女性クライアントの例を挙げましょう。彼女は家庭でも職場でも適応がうまくできませんでした。人間関係でもトラブルを起こしてきた歴史があり、中高生の頃から「問題のある子」と見られてきたようでした。
 適応が難しくなるのは、彼女の衝動性や不安定さにあるようでした。人間関係では、いささか自己中心的であるようで、周囲と歩調を合わせたりすることが難しいようでした。人と親しくしたり反目したり、その時々の気分でその人間関係は揺れ動くようでした。
 その女性が私のカウンセリングを受けていたのでしたが、彼女は「ここに来ると問題が何もなくなってしまう」と不平を漏らしました。どういうことなのかを私は尋ねます。彼女の話では、カウンセリングの場以外で見せるさまざまな症候がここでは出てこないということなのでした。
 私はそれはいいことなのだと彼女に伝えました。つまり、いろんな場面で「症状」が現れるとしても、「治療」の場で「症状」が消失しているということは、少なくともこの場面で彼女は「治癒」を経験していることになるのです。だからこれは望ましいことなのです。
 しかし、彼女はそれは「治療」ではないと反論します。彼女にとっては、「治療者」の前で「症状」を出せないことは「治療」ではないということになるのです。言い換えると、「症状」を出すことが「治療」であり、「症状」が消失することは「非治療的」であるということです。
 お分かりいただけるでしょうか。「治療」の場で「症状」が消失しているとすれば、それは「治療」がうまくいっていることの証拠であるはずです。彼女はこの「治癒」を受け入れないのです。そればかりかそれを「反治療的」な現象と見做しているのです。
 頻繁にイライラしたり、衝動的になったりして適応できない場面がたくさんある中で、彼女はこのカウンセリングの場にきちんと適応できているのです。彼女は安定して、穏やかで、衝動性から解放されています。本当は望ましい自分を彼女は経験しているはずなのです。私はそう思うのです。少なくとも、彼女が良好な適応を示す場面が一つはあるということになるはずです。そして、この状態が彼女の中に定着していくことが望ましいことなのです。
 彼女はそのことが理解できず、こんなカウンセリングは意味がないと言って、去ってしまったのでした。一番意味があったはずのカウンセリングを彼女は意味がないと言うのでした。彼女がカウンセリングから去ると言うのであれば仕方がないことですが、でも、それが彼女にとってどれだけの損失であったか、彼女自身分かっていないだろうと思います。
 この女性にどういうことが起きていたのか、もっと知りたかったと私は思うのです。彼女が早々とカウンセリングを去ってしまったことが残念でならないのです。彼女に何が起きたのか、私なりに憶測していくことにします。
 まず、前節の「結果が良ければ」が通用しないということが考えられそうです。彼女の中では「カウンセリングとはこういう話し合いをするものだ」といった固定観念があったのかもしれません。「患部に直接働きかけるもののみが治療であって、それ以外のことは治療ではない」と信じていたのかもしれません。結果的に彼女は望ましい状態を経験しているのに、この観念に適合しないからダメだと思ってしまったのかもしれません。

(「良くなる」ことが恐ろしい)
 これは「境界例」に特有であるとは私は考えていないのですが、彼らには停滞性が見られます。人生の一時点に拘泥するのです。時間が進展していかないのです。一切の動き、変化というものが、そのために受け入れられなくなっているように思います。
 言い換えると、「変化」ということを過度に恐れる傾向があるということです。一時点の状態に留まり続ける方が、変わっていくよりも、安全だと思われているのかもしれません。
 この傾向を認めると、もう一つの逆転性がよく理解できるように思います。彼らの中には臨床家から「良くなってきている」とか「治りつつある」と言われることが苦しいという人もあります。通常なら、そう言ってもらえることは嬉しいことでもあり、安心感が増す経験となるはずです。でも、彼らの中には、これがたまらなく不安をもたらすという例もあるのです。
 彼らは、一方では変化を望んでいるのかもしれません。新しい自分を求めているかもしれません。でも、古い自分を捨てることもできないのかもしれません。彼らにとって、「治る」ということが、依存対象から切り離され、孤立して生きることを意味している場合もあり得るように思います。もちろん、この「治癒像」は現実のものではありません。彼らの中でそのようにイメージされているということです。従って、「治る」とか「良くなっている」ということは、そうした恐ろしい状況の実現化を思わせるのではないかと思います。
 つまり、「治る」や「良くなる」というのは、彼らには、失うものがあまりにも大きい出来事として認識されているのかもしれません。そのために、それらは、望ましい状態としてではなく、望ましくない状態に見えてしまうのかもしれません。

(愛を恨みで返される)
 このような例をどれほど、私は実際に体験したか、あるいは見聞したか、枚挙にいとまがないくらいです。その度に、私の中で胸が痛むような経験となるのです。まあ、私の個人的体験は置いておくとしても、とても悲しい状況であります。
 周囲の人の施しは、彼らには余計なものであったり、望ましくないものとして認識されてしまうのです。家族が彼のために尽力したり、奉仕したりします。彼らはそれを「良い」ものとして受け取らないのです。「それをして当然だ」とか「彼らの義務だ」などと言う例もあれば、「私の方が苦しいのだから、彼らにはそうする責任があり、私が施してもらう権利がある」と考えたりする例もあります。
 彼らの言い分が正しいとしても、彼らは自分になされた施しの「良さ」や「好ましさ」を無効にしてしまうのです。彼らの中には、何一つとして「良い」ものや「好ましい」ものが残っていかないのです。一時的にそれらが残っても、いずれそれを無効にし、まったく正反対の体験に塗り替えてしまうのです。
 周囲の人は(臨床家も含めて)、これに傷つくのです。愛情を注いで、恨みで返されるような体験をしてしまうのです。この体験を繰り返ししてしまうので、周囲の人はその人を抱えきれないと感じてしまうのです。
一部の「境界例」傾向の人たちは、そういう観点を持っていないように見えるのです。この人たちは相手を傷つけたとは思いもしていないことでしょう。彼らはこう言うのです。「私の方がもっと傷つけられている」と。
 その言葉を否定するわけではありませんが、自分の傷を治癒することと、周囲の善意を撥ね退けることとは、本当は別の事柄ではないかと私は思うのです。

(文責:寺戸順司 高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年6月9日公開