<6-6C>境界例に見る逆転性(3)

<6-6C>「境界例」に見る「逆転性」(3)


(「逆転性」の研究)
 1940年代頃、外国である種の患者さんたちのことが研究されました。その人たちは様々な医療サービスに対して否定的に反応してしまうのでした。通常なら好ましいこととして受け取られる病院のサービスが、この人たちには真逆に受け取られてしまうのでした。後年、これが「境界例」の人たちに関する研究だったということが明らかになったのでした。(ガンダーソン参照)
 こういう逆転現象は古くから認められていたのだと思います。そして、実際、様々な場面で様々な逆転が生じるようです。

(望む手段で得なければならないこと)
通常なら通用する「結果良ければ」が通用しないというのもこうした逆転性の一例だと私は考えています。
 DV問題で相談された夫でした。彼は妻に対するDVを認めていました。妻は彼に「DV加害者プログラム」といったセラピーを受けることを強く望んでいましたが、彼はそちらを選ばず、私の方を選んだのでした。
 過去に妻に手を上げたことがあったとしても、少なくとも、私のカウンセリング期間中、彼はDVをしていないのです。私のカウンセリングを通して、彼はDVをしない人間になっていたのですが、妻はこの成果を最後まで信用しませんでした。彼女は、私とのカウンセリングを中断して、彼にそのプログラムを受けるようにと、繰り返し言い続けたのでした。
 私のカウンセリングであれ、そのプログラムであれ、結果的に彼のDV問題が収まればそれで彼女にとっては問題がないはずです。いずれにしても彼女は望むものを手に入れたことに変わりはないはずです。でも、彼女はそれでは納得しないのです。同じ結果を得られても、自分の選んだ手段でそれを得たのでなければ、彼女の中で、それは無効になってしまうようでした。

(得られた結果を無効にする)
 上記の例は比較的わかりやすいと思って挙げたのですが、もっと微妙な形でそれがなされることも少なくないように思います。
 ある「境界例」傾向を抱える子供の親の話でしたが、母親は子供のことが分からないと言います。簡単に述べると、子供は同じものが得られたのに、どうして以前のはダメで今回はOKなのかが分からないということでした。言い換えると、母親は「結果良ければすべて良し」でいいじゃないかと思っているのだけど、この子にはそれが通用しないということが母親には分からないのでした。
 本項で述べていることは、望ましい結果が得られたとしても、それを得る手順が当人の意にそぐわないような場合、当人は「意にそぐわない」という部分で反感を覚えるのかもしれませんが、その手段や手順だけでなく、得られた結果そのものも否定してしまうということなのです。
 この傾向はしばしば「治療」の障害となります。結果的に「治療」が「成功」したとしても、その「治療」の導入の経緯や「治療」過程での経験が意に反している場合、当人は「治療」の成功を信じなかったり、それを無効にしてしまうのです。
 あるクライアントは、私とのカウンセリングを中断したのでしたが、その後、彼女が繰り返しやってきた問題行動のために入院したそうです。ずいぶん後になって私のところに電話をかけてきて、あの入院は理不尽だったとか、騙されたとかいうことを訴えてきました。それは病院と彼女の間のことなので私には関係がないと答えるのでしたが、彼女は執拗に私に訴えます。でも、話を聞くと、入院してから数年間、その問題行動は一度も生じていないのでした。彼女からあの問題行動が消失しているのです。でも、この結果に彼女は何一つ満足していないのです。入院の経緯が彼女の意に反しているために、この成果が彼女には見えないようでした。

(否定的感情の汎化)
 発達心理学の分野で著名なやまだようこ先生は、1歳2か月児に、すでに上記と類似の現象を確認しています。子供は、自分の思った通りの手順で与えられないと、結果的に同じものが手に入ったとしても、かんしゃくを起こし、それを拒否してしまうというのです。(『発達心理学ハンドブック』p702参照)
 こういう傾向は、私たちに根強く残っているのかもしれません。結果的に試合に勝ったけど、不満が残るといった体験を大人になってもするかもしれません。ただ、その場合でも、結果そのものまで否定するわけではないと思うのです。そこは少し子供と異なる部分であるように思うのです。
 私たち誰もがそういう心性を、多かれ少なかれ、有していると私は考えています。「境界例」傾向の人の中には、この心性を少々激しい形で保持されている人もあるように思います。それに、結果がよければ過去の少々の不満は水に流そうということが困難な人も多いように思います。
 30歳のある男性は、高校時代に不満を抱いていました。彼はA高校を希望していたのでしたが、彼のその後の進路を考えると、A高校よりもB高校の方が有利であり、当時、両親にそのことをひどく説得されたのでした。彼は、親の意見を受け入れ、B高校に進学したのでした。その後、専門方面の大学に進学し、彼は現在では彼の希望していた分野で仕事をしているのでした。
 彼がA高校に進学していても、同じように望む職種に就くことができたかもしれません。肝心な点は、彼が希望していた分野で現在仕事ができているという「結果」なのです。彼はこの「結果」に全然目を向けていませんでした。その代り、あの高校進学は親の一方的な強制によるものであり、自分の意志をまったく無視してなされたものであると、今でも根に持っているのでした。
 どちらにしようか迷っている人に、身近な人が「後押し」をするという場面もあると思います。身近な人たちは親切心でそうするのだと思うのですが、「境界例」傾向の人たちの場合、「あの時、後押ししてもらって良かった」というふうには経験されないことも多いようです。
 「境界例」傾向のある子供を抱える母親から伺った話です。子供は自分の不調を意識しており、カウンセリングを受けようかどうしようかで迷っていました。母親はそのことで相談を受けたことが幾度とありました。しかし、何か月経っても、子供が選択しないので、母親は「迷ってばかりいないで、一度、行ってみなさい」と子供を「後押し」したのでした。子供はカウンセリングを受けることになりました。
 子供のカウンセリングは、しばらくは順調なようでした。子供ははっきりとは言いませんでしたが、母親から見ると、カウンセリングは子供にはそれなりに良いものと体験されているようでした。
 しかし、そのカウンセリングがうまく行かなくなると、子供は「あのカウンセリングは母に強制されたものだ」と言い始め、そんなことをした母親を叱責するのでした。
 この母親は私に「わたし、そんな悪いことをしたかしら」と訴えるのです。母親は何も悪いことはしていないと私は考えます。ただ、この母親は本節で述べているような心性を理解していないだけなのだと思います。
 この子はカウンセリングを受けようかと迷っています。母親はその「後押し」をし、その決断を助けたわけです。結果的に、この子はカウンセリングを受け、それなりに良好な体験をしています。おそらく、この子にしてみれば、「自分のタイミングで受けたのではないから、このカウンセリングに不満だ」ということなのではないかと私は思います。つまり、カウンセリングを受ける背景の部分を不満に思うようになっただけなのに、その感情が汎化してカウンセリングそのものの不満になっていたのでした。そして、現実にはそのカウンセリングでいい体験をしていたはずなのに、それもすべて無効にしてしまったのでした。

(文責:寺戸順司 高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年6月9日公開