<6-6B>境界例に見る逆転性(2)

<6-6B>「境界例」にみる「逆転性」(2)


(関係維持が関係切断になる)
「境界例」傾向の人に見られる逆転性について、別のシチュエーションを見てみましょう。
 今、あなたは親しい人と会っています。楽しい時間も終わりに近づいています。そこで相手から「また会おうよ」と言われたら、あなたはきっと嬉しく思うことでしょう。この一言で、相手もまた同じように有意義で楽しい時間を過ごしたということが窺われるし、あなたは自分が好かれていることの証拠をその言葉に見出すことだろうと思います。
 仮に、それが社交辞令だとしても、「また、会いましょう」と言ってもらえることは、通常、そんなに悪い経験とはならないはずだと私は思うのです。しかし、「境界例」傾向の場合、これは最悪の経験となることもあるのです。特に、相手が重要な意味のある人である場合、これが顕著になるのです。
 個人的に私が考えていることは、「境界例」は「別れ際」に問題化するということです。通常の別れ方が成立しないのです。「別れを惜しむ」というのならまだしも、そういう感じではなくて、「境界例」では、この別れを成立させないために、しがみついたり、引き延ばしたりと、ありとあらゆる試みがなされるのです。(<6-5D>参照)
 どうやら、「また、会いましょう」は、関係を維持する言葉としてではなく、関係が切れる言葉として「境界例」傾向の人は経験してしまうようなのです。

(「迫害」の意味を帯びてしまうこと)
 これは分離不安や見捨てられ感情の文脈で捉えることができるものですが、他の要素が関係している場合もあるように私は思います。
 例えば、「時間展望の拡散」がこれに加わる場合、将来のことは、不確実性に満ちており、曖昧さが含まれているので、困惑してしまうでしょう。つまり、「また、今度、会いましょう」の「また今度」という部分に確信が持てなくなるでしょう。中には、「また今度っていつ? 何月何日の何時のこと?」と、完全に明確化するまで引き下がろうとしないという人もあります。
 また、自尊心の低さとそれに基づくマゾヒズムが関与することもあるでしょう。「また、会いましょう」は自分を嫌っている証拠の言葉として受け止めたり、自分を苦しめるためにそう言っているのだといった認識をしてしまうということもあると思います。つまり、それは「迫害」の言葉となってしまうということです。

(ゆっくり別れること)
「境界例」傾向の強い人と毎回どのように別れるかは、私にとってはすごく難しい問題です。「時間が来ました、今日はここまで」とスッパリと終えることができないのです。これをして、怒りで反応されると、その処理のために莫大な時間が費やされることになるのです。臨床家によっては、それでもそうやって打ち切った方がいいと考える人もあるでしょう。でも、私にとっては尋常じゃないほどの消耗感が残るのです。
 一時間の面接であれば、後半30分あたりから、別れの準備をする必要があると私は思うようになりました。そして、時間が来てもスムーズに終われないことが多いので、20分程度の余裕を持っておく方がいいと考えています。私の考えでは、お互いにとって苦痛の少ない別れ方とは、じわじわと私が相手から距離を置いていって、フェードアウトするように私の存在感を小さくしていくというものではないかと考えています。
どのような方策を取ろうと、「別れ」の衝撃を小さくしていくことが早い段階から求められると、そのように考えています。

(壊してからでないと離れられない)
 いくつかの例を挙げましょう。
 あるクライアントは終了間際になると決まって「今とても重要なことを思い出した」と言います。それを今度にしましょうなどと言うと、この人は決まって怒りで反応されました。クライアントが重要なことを思い出したというのに、それを聞かない気か、それでもカウンセラーと言えるのか、ということですが、実際、それを聞いてみても、さほど重要なことではないのが常でした。
 別のクライアントでは、終了時間が近づくと、毎回のようにイライラし始めました。最後には怒って帰られるのでしたが、毎回、何事もなかったように次回の来談をされるのでした。
 「境界例」傾向の人の中には、いい関係で別れるよりも喧嘩別れの方がましだと思える人もあるようです。その方が別れやすいと思えるのかもしれません。関係や相手を攻撃し、破壊してからでないと別れられないという人であります。
 私が子供の頃、どうしても捨てられない玩具(プラモでしたが)がありました。どうしてもそれを捨てるという時、私はそれを壊したのでした。壊れて、もう取り返しがつかないという状態にして、初めてそれを捨てることができたのです。おそらく、これと共通する心理だと思います。あなたにもそういう経験があれば、その時のことをよく思い出されてみると、「別れる前に破壊する」という心理が頷けないこともないと思われることと思います。
 相手を破壊してからでないと別れられないという心理は、夫婦のDV問題で、離婚成立時期にしばしば生じます。私が見聞した中ではこれが一番よく目についたように思います。DV問題で来談されていた夫婦が離婚することになります。「被害者」立場の人の攻撃が激しくなることもあれば、「加害者」立場の人がそうなる例もあります。いずれにしても、この激化は「別れのための儀式」のようなものだと私は理解しています。
「境界例」傾向の人のエピソードを聞いていると、友達や恋人とはつねに喧嘩別れしてきたという人も少なくないように思えます。大抵の場合、その友達や恋人にそうなる原因があったというように彼らは話されるのです。でも、それは実証しようがないので、その人たちの問題であるかどうかは脇へ置いておくことにします。肝心なのは、相手は異なれど、毎回のように繰り返されるそのパターンの方であります。どうして普通に別れることができないのか、そこに問題意識を持つようになると、もっと違ったものが当人に見えてくるように思います。
 今回の別れを受け入れるのにも相当な時間をかけないといけないという人も中にはいます。クリニックや実習時代に私はこういう人を何人も見かけました。彼らは、面接が終了すると、とりあえずは面接室を後にするのです。でも、その後、何時間も廊下や階段の辺りで過ごされるのです。そこから帰ろうとしないわけです。
 これが攻撃的な表出をとると、その人は階段や廊下でも、取り分け人目につくような場所にうずくまったりするのです。実習時代にもこういう人を私は経験しました。私は放っておいたらいい、自分たちには関係のないことだからと言って止めたのですが、私の相棒がそういう人に声をかけ、世話してしまったのです。おかげで私も余計なことに巻き込まれたと迷惑したという話なのですが、それをすることは当人にとっても良くないことだと、今でも私は信じています。

(別れないために出会わない)
 また、「別れ」を経験しないために「出会い」を避けてしまうという人もあるように思います。人が怖いので、人と出会う場には行かないという人もおられましたが、その「人が怖い」という訴えの中には、幾分なりとも、「出会ったら別れなくてはいけない」という恐れが感じられることもありました。
 別れる前に相手を破壊することも、別れを避けたいから出会いを回避するということも、別れの困難さに「先手を打つ」という意味合いがあるように私には思われるのです。

 以上、いささか散漫な内容になりましたが、「別れの困難」を抱えているために、「また、会おう」といった次回へつなぐ働きかけでさえ辛い体験となってしまうということが、本項での主旨でありました。これらはすべて「通常」とは正反対の体験として、彼らには受け止められてしまうのです。

(文責:寺戸順司 高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年6月9日公開