<6-6A>境界例に見る逆転性(1)

<6-6A>境界例に見る逆転性(1)


(「逆転性」とは)
 タイトルに掲げている「逆転性」とは、アベコベのことが起きるということを示すために私が個人的に用いている言葉なのですが、適切な言葉が見当たらないので「逆転」と表記します。平たく言うと、「境界例」傾向の人にとっては、「通常」なら良いこととして体験される事柄が、悪いこととして体験されたりなど、「通常」と逆のことが生じてしまうということです。
 何人かの、「境界例」傾向を抱えている人に悩まされている家族にこのことを確認してみたところ、家族の人たちは私の言わんとしていることがわかると答えられました。中には非常によくわかるとおっしゃった方もおられました。
 後々述べていくことになるのですが、彼らのこの「逆転性」のために、彼らに施される「治療」や援助サービスで彼らは多いに苦しむことになるのです。「通常」であれば望ましい「治療」や援助サービスが、彼らには自分を苦しめる行為として体験されてしまうのです。この「逆転性」のために、「治療」は難航し、その他の人間関係にも支障をきたすことになってしまうと、私はそのように考えております。
 以下にいくつかのシチュエーションを通して考察していくことにしますが、こうした「逆転性」は「境界例」に特有のものではないかもしれません。でも、「境界例」傾向の人のエピソードにはとても頻繁に見られる現象であるようにも思われます。

(会話場面における介入の例)
 まず、こんな場面を取り上げてみましょう。あなたは今、親しい人と会話しています。あなたの話を相手が聞いています。
 相手は、あなたの話を聞きながら、「うんうん」「そうそう」といった相槌をしているかもしれません。「そこのところ詳しくきかせて」とあなたに要求を出すかもしれません。「それからどうなったの?」とあなたに質問してくるかもしれません。「あなたの言っていることはこういうことなの」とあなたに確認をするかもしれません。要するに、相手はあなたの話に大なり小なり「介入」し、あなたに「関与」してきます。
 こうした介入や関与は、時には、話の腰を折られた感じがするとか、うっとうしいとか感じられることがあるかもしれません。しかし、介入されること自体に関しては、「通常」ではそれほど悪い体験にならないものです。
 相手の介入によって、あなたは自分が関心をもたれていることを実感するかもしれませんし、相手の熱心さを嬉しく思うかもしれません。多少、不満に思う部分はあっても、介入してもらえることに関しては、必ずしも悪い体験とはならないと思います。
 ところが、「境界例」傾向の場合だと、これは「最悪」の体験となるのです。相槌程度のわずかな介入でさえ、彼らには脅威となる例も少なくないのです。
 何人かの「境界例」傾向を抱える子供は、時々、母親をつかまえては2時間でも3時間でも話し続けるのでした。その時、子供はまず最初に「一切、言葉を発してはいけない」と母親に釘を刺してから始めるという例もあります。母親が口を挟もうとすると、ジェスチャーでそれを制止し、母親が相槌を打っただけでも不機嫌になるという子供の例もあります。一人の母親はその場に無言でじっとしていなければならないのが苦痛だと訴えていました。

(幻想の崩壊)
 私の自験例で言えば、一人の女性クライアントを私は思い出します。彼女はカウンセリング場面で一生懸命に話していました。話すというよりも、彼女が一方的にまくしたてるといった感じでした。私は言葉を挟む機会がなかなかつかめませんでした。一度、わずかな機会を捕まえて、「そこのところがよく分からない、詳しく教えて」と言ったのでした。その瞬間、彼女は激しく怒り出し、その後は手が付けられなくなったのです。
 私は、もっと詳しく話を聞きたいとお願いしているだけだったのです。そして、通常ならこれは悪い経験とはならないはずです。詳しく聞こうと思ってくれているんだと感じ、嬉しくなることもあると私は思うのです。
 さて、少し余談ですが、上述の女性クライアントについて補足しておこうと思います。
 彼女はどうして怒らなければならなくなったのか、それについては彼女自身にしか分からないことですが、私なりに推測してみます。
 「聞き手」がまったく介入しないということは、「話し手」にとって、「聞き手」の実在性が薄く感じられるという事態に陥ることがあると思います。聞いている相手の現実性が薄くなり、その分、話し手のファンタジーが大きくなり、それがこの関係に持ち込まれやすくなるでしょう。
 この女性クライアントは、どこかで自他融合の感覚に陥っていたのだと思います。相手が現実の人間ではなく、どこか自分の一部でもあるような、どこか一心同体であるような、そんな感覚になっていたのだと思います。
 こうした融合状態にあれば、例えば、「自分にはよくわかっていることだから、相手も同じようにわかっている」と、そう信じ込んでしまうこともあるでしょう。本当はこれは幻想なのですが、当人には事実のように体験されているのだと思います。
 私がそこをもっと詳しく教えてと頼んだ時、彼女のこの幻想が崩壊したのだと思います。相手も自分と同じようにわかっていると信じていたのに、実はそうではなかったんだという現実に彼女は直面したのだと思います。
 その瞬間、彼女は自分が切り離されたように体験したのだと思います。相手から切り離された、あるいは、自分の一部が切断されてしまったといった体験となったのではないかと思うのです。言い換えれば、分離や別離を彼女は体験したのだということです。
 彼女が怒りでもって抗議するのはこの部分だと思います。私の介入が彼女に怒りをもたらしたのではなく、自分が切断されてしまった、切り離されてしまったという感覚に怒りで反応しているのだと思われるのです。
 また、これに続く彼女の「手の付けられない状態」というのは、彼女の「境界例」傾向を如実に示している部分だと私には思われます。相手からの一つの介入がここまで彼女の自我を混乱させてしまっているわけです。怒りはこの破綻に対する防衛の意味合いがあります。このことは、つまり、彼女にとって、外からの刺激がどれほど多大なストレスになるかということと、そのストレスに対して適切に対処できないという傾向を示しているように思われるのです。
 周囲の人たちは、どうして相手がそんなに怒るのかわからないと訴えます。良かれと思ってしたことに怒りで反応されてしまったりするのです。この「逆転性」はなかなか理解してもらえない部分であるように思いますので、しばらくこのテーマを考察していくことにします。

(文責:寺戸順司 高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年6月9日公開