<6-5I>性の嫌悪と耽溺

<6-5I>性の嫌悪と耽溺


(青年期の課題)
「境界例」とは、何よりも、青年期につまずいた人たちであります。青年期につまずいた人すべてが「境界例」というわけではありませんが、「境界例」傾向の人たちにはまずこの時期のつまずきが確認できるのです。
 青年期には、どの人にも多くの課題がのしかかってきます。心理的にも身体的にも変化していきますし、児童期よりもより複雑な状況に適応しなければならなくなります。この時期をどうにか乗り越えた人であっても、やはり、相当な困難を経験していたりします。
 青年期の課題の一つに「性」があります。まず、身体が変化します。男子は男性の体になっていき、女子は女性の体へと発達していきます。それは性的(ジェンダー)同一性の課題をもたらすことになり、青年はその克服が求められることになります。
 また、身体だけではなく、性に関する衝動も強くなります。この衝動は、セックスへの興味といった領域だけではなく、異性への意識、恋愛や親密さを求める欲求としても現れてきます。青年たちはこれらの課題にも取り組まなければならなくなるのです。
 異性を意識すること、恋愛への憧憬、親密さの欲求などは、必然的に自意識を高めることになります。自分に目が向くようになり、自分を意識し、自分の存在に不安を覚えたりすることでしょう。こうして、青年たちは同一性の課題も取り組むことになります。

(性の嫌悪)
 青年期に関しては、それがとても複雑な時期であり、多くの課題が課せられる年代であるので、いずれ別の個所で取り上げることにします。本節で取り上げるのは、その課題の中の一つ、「性」に関することです。
 これも「境界例」傾向の人すべてに該当するものではありませんが、彼らの中には性を非常に嫌悪する人たちもあります。性に関する事柄を自分から一切排除しようとしてしまう人もあります。
 また、性の嫌悪から性に耽溺するという人も少なくないようです。嫌悪する対象にどうして耽溺できるのか、疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。「強迫的」な症状を抱えている人たちと接していると、これが必ずしも不思議な心理ではないということが分かるのですが、身近にそういう人がいないという方もおられるでしょうから、最も単純で分かりやすい例を挙げると「怖いもの見たさ」の心理に近いでしょうか。嫌悪すればするほど、それに引き寄せられていくのです。性の耽溺は、性の乱脈を導き、さまざまな倒錯的な方向に向かわせることになります。

(いくつかの事例より)
 ある男性は頻繁に襲ってくる性的観念に悩まされていました。彼はこの観念を受け入れることができず、その観念に浸ってしまう自分も許せないと感じていました。性に関することを想像するたびに、彼は罪悪感を覚え、自虐的な行為をしなければなりませんでした。自分の性衝動、性欲を抑えるために、彼は長年女性ホルモンを打ち続けていました。
 性衝動というのは、人類だけでなく動物においても、根源的な衝動なのです。それが種族の存続に直接かかわる衝動であるからです。従って、この衝動を一切合切自分から消却させるなんてことはできないのです。上記の男性は、自分から性を切り離そうとしていますが、それが根源的な衝動であるがために、性衝動の方が彼を切り離さないでいるのです。性を嫌悪しても、性の方がその人を捕まえて離さないのです。だから、どんな小手先の技術を用いようとも、性の消去は達成できないことだと私は考えています。
 また、ある男性には極端な女性蔑視の思想が見られていました。どうして、彼がそこまでして異性を放逐しなければならないのか、私には疑問でした。彼の話では、人生の途中から、青年期に当たる年代でしたが、その頃からそうなったのでした。彼は性を受け入れることができなかったのだと思います。人間の性別は一つだけでいい、男性だけでいいと考える彼は、女性蔑視に走るだけでなく、男性同性愛にも走っていました。
 セックス依存症だと自称するある女性は、交渉次第では誰とでもセックスすると言います。性的に乱れた生活を送る彼女は、「どんな男でも裸になればただのオスだ」と言い切ります。相手の男性の個性を消去する辺り、男性蔑視の思想とも取れそうですが、肝心な点は、そうしてセックスをしても彼女は何ら感情が動かされないということでした。感情が動かされないということは、それを嫌悪しているからであると私は考えています。
 彼女が12,3歳頃、夜な夜な父親が彼女の寝室にやってきては布団に潜り込んできたそうでした。彼女は寝たふりをしていたそうでしたが、父親が満足して布団から出るまで生きた心地がしなかったことを彼女は覚えていました。
 私は「あなたは本当は性を嫌悪しているのではないだろうか」と、彼女に伝えてみました。彼女はそれを一笑に付しました。彼女は、こんなにセックスに明け暮れる人間が性を嫌悪しているはずがないと反論し、一体どこを見てそんな結論に至るんですかと、半ば軽蔑を込めて尋ね返してきました。私は、「きっと性を嫌悪していて、性よりも自分の方が強いんだということを証明したいのでしょう」と伝えました。
 その解釈をしてから、彼女はカウンセリングがバカバカしくなったと言って、早々に去っていきました。しかし、数か月後、彼女はカウンセリングに戻ってきました。あれ以来、私の解釈がどこかで引っかかっていたらしく、彼女は常にそれを意識していたそうでした。そして、性行為の最中、彼女は自分が性を嫌悪しているということをはっきり自覚したのでした。

(性的意味合いが付与される)
 性の嫌悪は、しばしば過剰な反応として顕在化します。些細なことであれ、性的な意味合いが付与されてしまうこともあるのです。
 ある女性は私が医師であるかどうかをしつこく尋ねてきました。私が医師ではないと聞くと、彼女は安心してカウンセリングを受けにきたのでした。どうして医師であるかどうかにこだわったのか、私は尋ねてみます。彼女は、以前、入院した時に、医師がベタベタと体を触ってきたので不快だったという話をします。しかし、それはセクハラではなく、触診の範囲内であるように思われたので、私にはその医師の個性や人柄の何かが彼女に嫌悪をもたらしたのではないかと考えました。後日、彼女はそこを訂正し、本当はどの医師に対しても同じ不快を経験するということでしたので、私は彼女に性嫌悪の存在を疑いました。事実、彼女はこれまで一度も性交渉をもったことがなかったのでした。指摘されると、彼女は自分には性への嫌悪があるということを打ち明けてくれました。つまり、性への嫌悪があるために、医師の通常の触診でさえ、性行為として体験されてしまうわけであります。
 私も十分に気を付けなければならないことでしたが、カウンセリング終了後、ある女性クライアントに「次回も来られませんか」と勧めた時のことです。彼女はそれを「誘惑している」と受け取ったようで、途端に私を警戒し始め、「けっこうです」とそそくさと退室されたのでした。「次回はいかがいたしますか」と言えばよかったのですが、不注意にもそう言ったのです。彼女に性嫌悪があったかどうかはその時点では不明でしたが、その可能性は考えておくべきだったと反省した次第です。それはともかく、彼女は、「次回もカウンセリングに来ませんか」という誘い掛けを、あたかも「ホテルに行こう」と誘惑されたかのように意味づけているのです。

(性的被害者になってしまうこと)
 性への嫌悪に、マゾヒスティックな傾向が加わると、この人はあらゆる場面で「性的被害者」になってしまいます。相手が近づいてきたというだけで、相手が何もしていなくても、この人には「性的虐待を受けた」という体験になってしまうこともあります。
 ある男性は部下の女性のことで相談に来ました。ある企画があって、彼とその女性部下の二人が中心になって動かなければなりませんでした。ある晩、彼は彼女と打ち合わせのために残業をしました。彼は、「遅くなったのでメシでも食って帰ろか」と彼女を誘ったのですが、彼女は断り、彼もそれ以上に強要したりはしませんでした。翌朝、彼がいつものように出勤した時、その女性部下が彼から性的被害を受けたということで、職場は大騒ぎになっていました。彼の無罪はすぐに証明されたのでしたが、今後、この女性部下とどう接したらいいのかが分からなくなって、カウンセリングを訪れたのでした。彼のカウンセリングの詳細は省きますが、いくつかの理由から、また、いくつかの場面から、この部下の女性には性への嫌悪感が強いということが推測できるのでした。

(性の嫌悪から孤立へ)
 性の衝動は根源的であり、自然な衝動であるものです。ただ、青年期にはそれが激しい勢いで噴出することもあり、自我が圧倒されてしまうこともあります。その他の課題ものしかかってくるので、性衝動に適切に対処し、自然な衝動として受け入れていくこともたいへんなことだと私は思います。うまく行かなかったり、失敗してしまうという場面もきっと現れるでしょう。徐々にでも、それを受け入れていけばいいと私は考えています。
 自我が性衝動に耐えられない場合、性衝動は「悪い」ものとなり、自分から切り離してしまわなければならない何かになってしまうのでしょう。しかし、この努力は必ず失敗に終わるのです。
 そして、性衝動を切り離すことは、親密さや恋愛を阻害していくことになるので、どうしてもその人は孤立してしまうことになると思います。

(文責:寺戸順司)



平成28年6月4日公開