<6-5H>傷つきやすさ

<6-5H>傷つきやすさ


(傷つきやすさは「症状」である)
「境界例」傾向の人たちが、人間関係を遮断したり、孤立してしまったりする一因は、彼らの傷つきやすさによるものだと思います。人間関係が不安定になるのも、やはり傷つきやすさということと無縁ではないと考えています。
 この「傷つきやすさ」という傾向は、当人たちは非常に過小評価しているという印象を私は受けています。彼らはそこに問題意識を抱いていないように見えるのです。ナイーブであるとか、繊細と言えば、それは一つの個性のように見えるかもしれませんが、私の見解では、「傷つきやすさ」は一つの「症状」として把握する方が適切であるように思います。
 彼らの中には、自分が傷ついた時、自分が傷つきやすいということを問題にしないで、傷つけた相手の問題として理解する傾向があるように思います。そこで、相手を責めるわけです。自分が傷ついたということに関しては、そんなことをされたら傷つくのが当然だと考え、そこには一切自分の責任はないということになるのです。確かにそれも正しいとは思うのですが、そこはもう少しよく見てみる必要があるように思います。

(傷つきやすさの二側面)
「症状」としての「傷つきやすさ」には、二つの側面があります。
 まず、「簡単に傷ついてしまう」という一面です。些細なことで莫大なダメージを受けてしまうのです。周囲の人には、どうしてそれくらいのことでそこまで傷つかなければならないのかが、理解できないという場面もよくあるように思います。
 肝心なことは、「傷つく」ということではなく、「簡単に」の部分にあるわけです。
 もう一つの面は、「一度傷ついたら立ち直れない」という一面です。傷つくという体験は、誰もが多かれ少なかれしてしまうものです。ここでも、傷つくということが問題なのではなくて、そこから立ち直れないということが問題であるわけです。
 どうしてそうなるのかということに関しては、いずれ「自我境界から見る境界例」という項目で詳しく取り上げることにします。

(人間関係の傷つき)
 彼らが傷つくのは主に人間関係においてであります。それ以外の領域で傷つくということは、あまりないように思うのです。
 彼らが怒りを爆発させる時、それは傷つきに対する「抗議」として理解することが可能であり、彼らの中にはそうすることでしか自分の傷つきに対処できないと思われる人もあります。
 周囲の人が過剰なほど彼らを警戒し、気遣うのは、何気ないことで彼らが爆発してしまうからであり、周囲が困憊してしまうこともあります。何が彼らを傷つけたのか、周囲の人にはまったく分からないという例も少なくありません。
 関係性をある程度築ける人においては、自分が傷つけられないように、厳重に自分を守りつつ人と関わるようです。そのような人たちは、しばしば、人と会う時には鎧を厳重に着こまなければならないとか、分厚い壁越しでないと会えないといった表現をするのです。そのために、周囲の人はその人に近寄りがたい感じを抱いてしまうこともあるようです。
 ある人は、自分が傷つかないために、まったく他人事のようにカウンセリングを受けていました。また、別の人は、何を言われても一切影響されないという頑なな姿勢を終始保ち続けていました。ひどく警戒し、緊張でカチカチになっている人もありましたし、カウンセラーが発言しようとすると即座に制止するという人もありました。すべて傷つくことに対する防衛なのだと思われます。

(傷つきに関する諸場面)
 俗に言う「見捨てられ不安」という感情も、本当は「見捨てられることで傷つくことに対する不安」なのだと思います。見捨てられるのが不安なのではなく、そこで傷ついてしまうかどうかが不安なのだと私には思われるのです。
 夫婦関係や「DV問題」で問題になるのは、誰が誰を傷つけないようにしているのかが不明瞭となる現象です。「相手を傷つけないようにしている」とある人が言う時、「自分が傷つかないようにしている」のかどうかが判明できない例もあります。そして、お互いが「相手から傷つけられ、相手を傷つけないように」しているという例もありました。私が思うに、「自分が傷つく」という面は見たくないだろうし、見るのも考えるのも辛いのでしょう、それでそれが「相手が傷つく」という内容にすり替わって、それに固執してしまうのでしょう。
 また、中には、自分を傷つけた人を延々と恨み続けるという人もあります。何らかの復讐をする人たちもあります。その人が延々と相手を恨み続けるのは、その人が自分の傷に対処できていないということを示していると私は考えています。自分の傷をどうにかすることができず、それができないがために、傷つけた相手をどうこうしようとするわけです。
 この「復讐」は微妙な形をとることもあります。私の若いころの失敗でしたが、あるクライアントは自分を傷つけてきた親たちを精神病名で呼びました。彼は親を「診断」しているのです。そして、私に向かって、その「診断」の根拠と正当性を訴えるのです。それは構わないのですが、このカウンセリングは彼の講義のようなものになってしまい、不毛な作業となったのです。
 私は彼が何をしようとしているのかが分かりませんでした。自分の診断がいかに妥当であるかを証明したいのだろうか、それとも問題にこういう形で取り組んだということを示したいのだろうか等々、さまざまな仮説を立ててみましたが、どれも辻褄が合わない感じがしました。
 後年、私はようやく理解したのです。彼はそれをすることで親に「復讐」をしていたのだと。彼は親を「病名」で呼ぶことで、親を「非人格化」しているのだと思います。親は、あたかも「一症例」としての価値しか与えられず、人間としての存在を貶められるのです。彼は親を個人とは認めず、ただの「症例」にしているのです。そうすることで、彼は、無意識的に、親に「復讐」をしているのだと思われるのです。

(「治療」が傷つきの場になってしまう)
 最後に「治療」の場についても触れておきます。彼らは「治療」を「自分を傷つける行為」とみなす傾向が強いように思います。事実、彼らはその場で傷つきを体験してしまうこともあります。
 傷つきを回避するために、徹底的に警戒したり、反抗したりするのです。いわゆる「試しの時期」というのは、自分が傷つけられるかどうかを慎重に吟味しようとしている時期として見ることが可能だと思います。
 以上、本節では「傷つきやすさ」を中心に思いつくまま考察してきたのでしたが、これは一つの「症状」として理解しなければならないこと、そして、この傾向のために人間関係が不安定になったり、「治療」の抵抗になったり、後の人生を損ねるようなことをしたりしてしまうのです。

(文責:寺戸順司)



平成28年6月4日公開