<6-5G>孤立と孤独

<6-5G>孤立と孤独


(孤独の世界)
「境界例」を理解することは可能であると私は考えています。しかし、彼らがどんな世界に生きているか、それを真に分かることは難しいと思うのです。
 彼らの多くは孤立しており、孤独を体験しているものと思います。ただ、それがどんな孤独であるか、どんな孤独の世界に彼らが居るのか、本当には理解し得ないかもしれないのです。
 孤独と言うと、寂しいとか独りぼっちといったイメージを持つ人もおられるでしょう。確かに、彼らも寂しいとか独りぼっちであると体験しているようです。ただ、「境界例」ではそれ以上に陰鬱で陰惨なイメージが付随しているように思われるのです。
 彼らも自分の体験している孤独感をどのように表現していいか分からないということも多いようです。きっと、言いようのない孤独感なのでしょう。
 彼らの孤独感を理解したいと私は思うのですが、私もどう表現していいか分からないのです。「独りで砂漠に放置された感じでしょうか」「大海原を独りで漂流している感じでしょうか」「暗い森の中で、独り、道に迷った感じでしょうか」などと比喩的に伝えてみると、彼らの中にはわかってもらえたと体験する人もあるようです。
 私には、この孤独は「周囲に誰もいない」ということ以上に、「放置されている」とか「置き去りにされている」といったニュアンスが色濃く体験されているようであり、そこでは寄る辺もなく、道標や光明もなく、あらゆる人々からの迫害を受け、追放され、人間的なつながりのすべてから切り離された存在として自己が体験されているのだと思われるのです。

(孤独に対する種々の反応)
 救いようのない孤独感に、絶望してしまう人もあるでしょう。彼はこの孤独に自分を同一視するでしょう。彼は、もはや自分からは一切のつながりを他者との間に築こうとしなくなってしまうでしょう。
 怒りでもって反応する人たちもあるでしょう。彼は、自分を切り離し、迫害し、置き去りにした人々を恨み続けることでしょう。彼は、他者に対して、攻撃的な関係を築くことでしょう。
 藁をもすがる思いで、わずかの人脈に必死にしがみつく人たちもあるでしょう。彼はこの人を失うことを過度に恐れるようになるでしょう。そして、この人たちを引き付けておくためにあらゆる努力がなされることでしょう。彼はそうせざるを得なくなるでしょう。
 ごく一部の人たちは、自分の体験している孤立や孤独の世界を、詩や小説、絵画などで表現できるのです。そういう文芸の技術や才能を身につけている人たちは、まだ幸福であります。自己の体験を表現できることは、その体験を耐えやすくしてくれるからです。
 でも、もっとも多いのは、この孤独を前に立ち往生してしまい、どんな態度を採ることもできないという人たちではないかと、個人的にそう思うのです。この人たちは、孤独に対して、無力であり、なす術がまったく無いかのような体験をしているのではないかと思います。孤独に対して、無力であり、敗北してしまっているような人たちであります。

(孤独からの回復)
 孤独であることは、とても辛い体験です。もはや誰も自分と関わってくれることがなく、自分のことを見てくれる人もいないのです。外側の世界にはたくさんの人たちがいるのに、自分がその人たちと同じ人間だとは思えなくなったり、周囲の人がもはや無意味になってしまったりするのです。
 周囲の人と自分との間に越え難い壁を感じる人たちと何人もお会いしました。自分だけが「異質」だと感じている人にも会ったことがあります。彼らは孤独の世界に陥らざるを得なくなるのです。
 周囲に敵意を剥き出しにする人たちも、私は何人も知っています。あくまでも攻撃を続けた人たちもいれば、どこかで力尽きてしまう人たちもいます。彼らもまた孤独だったのだと思います。
 「自己憐憫」はしばしば回復の一歩となることが多いように思います。孤独に陥らざるを得なかった自分を憐れむようになるわけです。この「自己憐憫」が、心の領域を占め、敵意やその他の心配事に取って代わるようになればなるほど、彼らは自分を憐れみ、過去を後悔し、涙もろくなり、感受性が高まり、刺激に過剰に反応したりするようになるでしょう。
 敵意を剥き出しだった人が「自己憐憫」に陥るということは、見ようによっては一つの前進であると私は考えます。「自己憐憫」とは、自分に対して「母性」を働かせることだと考えられるからです。泣いている子供を見て「かわいそう」と言う、それを自分に対して行うことであります。
 この「自己憐憫」の期間がどれだけ続くかは、何とも言えません。これを一生続けてしまうという人もあるかもしれません。望ましいことは、「自己憐憫」が「自己慈愛」に席を譲っていくことであります。自分を「憐れむ」ことから、自分を「慈しむ」ことへと発展してほしいと私は願うのです。
そのためには、「自己憐憫」の時代に生まれた「母性」を損ねてはいけないと思うのですが、一部の人たちは、「自己憐憫」を自分に禁じてしまうこともあります。自分を憐れむことを情けないと思ったり、こんなことをしても何にもならないと一方的な判断をしてしまったりするのです。これはとても勿体ないことだと私は感じるのです。そうして、「自己憐憫」という行為だけでなく、その背後にあるものまでも、自分から遠ざけてしまうのです。
 「自己憐憫」から「自己慈愛」に発展していくと、その人は自分を憐れむことを止め、自分を慈しむようになっていくわけですが、この段階で「治療」に参加する人たちもおられるように思います。つまり、「自分が可哀想」と言い続けた時期を過ぎ、「この可哀想な自分をなんとかしてあげたい」という感情が生じてくれば、その人は「治療」へと動き始めるということなのです。

(回復の場としてのカウンセリング)
 ここで言う「治療」とは、要するに、カウンセリングであります。
 私がカウンセリングを受けます。私は、私の言葉に耳を傾けてもらえるという体験をします。また、私の話に参加してもらえるという体験をします。それは私に私の価値の回復をもたらします。そして、一つ一つの私の体験が正しく理解されます。人に理解されるということは、私が人間であると信じられることになります。私が人に理解される人間であると信じられるほど、誰からも理解されない異質な存在であるという自己感情を、私は放棄していくことになるでしょう。
 どれだけの期間、このような体験を反復し、継続していく必要があるのか、一概には言えません。そうした体験が私の中に生まれ、それが私に根付いていけば、私は私が一人の人間として他の人たちと共通であることを知るようになるでしょう。私が一人の人間として普通に尊重されていたことを知るでしょう。言い換えれば、私が、過去も現在も、人間の一員であるということを、知的にではなく、体験として知っていくことでしょう。
 この時、私はもう孤独ではなくなっているのです。「みなし児」だった私は存在しないのです。「砂漠に置き去りにされた」私はもはや存在しないのです。私が共人間的世界の中で生き始めるに従って、私は私の孤独から解放されていくのです。

(文責:寺戸順司)




平成28年6月4日公開