<6-5F>結婚への逃避

<6-5F>結婚への逃避

(愛と生存の同時的解決)
 これは「境界例」全般に該当するものではないかもしれませんし、一部の女性において観察されたことに基づいて記述するのですが、しばしば結婚への逃避と思われるケースがあります。
 彼らは愛に一生懸命になるという印象を私は受けています。その愛は、与える愛ではなく、与えてもらう愛であり、言葉は悪いですが、自分が助かるための愛という様相を帯びるのです。
 また、前節で彼らが生きていけるということが最重要課題であるということを述べましたが、彼らは「愛」の問題と「生存」の問題を同時に解消するのです。それが結婚という選択肢であるということなのです。
 しかし、この結婚は、最初は順調に見えるのですが、やがて「問題」が顕在化することになります。なぜなら、過去の未処理の「問題」がこの夫婦生活に持ち込まれてしまうためであります。
 こうして、かつて親に対してやっていたのとほとんど同じようなことを、今度は配偶者に対してやってしまうのです。親はそれに耐え、見捨てなかったかもしれませんが、配偶者も同じようにできるとは限りません。夫婦は離婚することで関係を解消することができるのです。
離婚が成立すると、彼らは完全に「崩壊」してしまうのが特徴的であるように思います。親から離れて生きていけないのと同じで、離婚すると生きていけなくなるのです。

(夫婦問題の様相)
 少し具体的な話に入りましょう。
 このパターンで私がもっともよく経験するのは、夫が来談するものであり、それも妻からなかば強要される形で来談することになった夫たちです。「問題」の種類はDVであったり、夫婦関係のいざこざであったりするのですが、妻は「それは夫の問題であって、自分の問題ではない」(とスプリッティングしている)という態度を頑なに維持するのが特徴的であるように思います。
 こうして夫がカウンセリングを受けることになるのです。しかし、妻は夫が改善されないということでイライラし始め、中にはこのカウンセリングを今度は止めさせるという妻もあります。
 この妻たちは、夫が変わることで自分が良くなると信じているのですが、これは投影的同一視の一例であるように思われます。本当は自分が救済されたいのですが、夫が救済されることで自分が救済されるように体験できると、そのように体験されているのだと思います。
 この妻たちが「境界例」的であることを示す証拠の一つが、上述のような防衛スタイルに求められるのです。
また、離婚してから崩壊してしまうというのもその証拠です。「精神病水準」まで退行してしまう人もあるのですが、この離婚は、妻にとっては、通常の離婚以上の意味合いがあることを示しています。
 そして、対象との離別から、自分を立ち直らせることができず、崩壊を阻止することも、ほどほどのところで自分を維持するということもままならないのです。そこから一気に落ちてしまうのです。
 離婚に関しては、夫たちの方がびっくりすることもあります。あれほど繰り返し且つ執拗に「離婚だ、離婚だ」と騒いでいた妻が、望み通りに離婚が成立すると、激しく夫を攻撃し、離婚に反発し始めたりするのだから、夫としては訳が分からなくなるでしょう。妻の言う「離婚」は「悪い対象」を自己から追放するための言葉である可能性が高く、それを内面に抱えることの困難さを示している(つまり、自我境界が脆くて、自我内のものが漏洩している)ように思います。

(子供の受難)
 この夫婦に子供がいる場合には、もっと悲惨なことが起こるのです。そして、不幸にも、私がお会いした限りでは、ほぼ9割の夫婦で子供が生まれているのです。
 妻は、その自我が脆いためもあって、出産のストレスが過大にのしかかってくるのではないかと思うのです。苦しい体験となることが多いのではないかと思います。そうして苦しんでまで産んだ子供なので、妻は、いつまでもその子を自分の一部にとどめようとするか、自分からまったく切り離してしまうかの、どちらかの傾向を強めてしまうように思います。
 あくまでも私の経験した範囲では、子供を自分の一部のようにしてしまう妻が多かったのです。子供のことはすべて自分がやると言って、夫をまったく子に触れさせないようにしたりする妻や、夫と子供の会話にはとにかく妨害に入らなければいられないという妻もありました。
 こうして妻は、かなり一方的な子育てをすることになるのです。そこで、前述のスプリッティングや外在化、自我漏洩などが生じると、子供に憎しみを教えることになります。例えば、夫は悪い存在なので、父親のようになってはいけないと子供に教育したりするわけです。子供はこの憎悪を自分のものにしてしまうのです。
 ある夫は、子供はまるで妻のミニチュア版だと表現しました。妻の攻撃は何とかなるけど、子供が本当に殴り掛かってくるので、妻よりも子供の方が手に負えないと彼は話します。
 しかし、こうして自分の一部のようにして育てた子供が、少しでも父親に似てくる(と妻にはそう思われる、そう見える)と、妻はこの子から一切の愛情を撤退してしまうということが起こるのです。子供は、自分の限られた一面のみが母親に受け入れられるという体験をし、母親に受容し続けてもらうためには、自己を分裂させなければならなくなります。自分の半分は自分のものであってはならないという体験をしなければならなくなるのです。
 この子は、いわば自分の半分の領域だけで生きることになるので、その後において何かと問題になる現象を呈するようになるかもしれません。例えば、不活発で活動的でなかったり、孤立していたり、集団に溶け込めないといった感じの子に育つかもしれません。妻たちは、それを「おかしい」と思わないこともあります。それは自分の中に確固とした基準が備わっていないためであるように私は思います。また、「おかしい」と気づいても、それを夫の責任だと言って夫を責めるということをしてしまうこともあります。
 また、妻が「時間展望の拡散」を抱えているようであれば、子供の将来を考えることができなかったりして、今この瞬間に子供を満足させるということが、いつでも正しい子育てであると考えてしまうこともあります。あるいは、学校や社会など、外部に子供のことをすべて任せようとしてしまうこともあります。自分ではどうしていいかわからないためだと思います。

(同一性の問題)
 さて、もっとも重要なことは、この妻たちには同一性形成過程をきちんと通過した歴史が認められないということです。もちろん、この妻たち本人から直接伺ったわけではなく、夫から間接的に聞いたことなので、実際のところはどうだったのかわからないのではあります。
 しかし、一度も働いたことのない妻、アルバイトすらしたことがない妻という例もありますし、同一性拡散症状のような時期が認められることもあります。そういう時期があるのは構わないのですが、そこをうまく通過したという痕跡が認められないということであり、従って、同一性の問題をそのまま抱え続けていると思われる妻たちもいました。
 この同一性の「問題」は、「○○家の妻」といった役割に適合できなかったり反発したりするという形で表面化することもあるのですが、日常場面では、妻になることにも母になることにも困難を覚えるという形で当人たちには体験されているように思います。

(本節の要点)
「境界例」傾向を抱えたまま結婚すると、どんなことが起きるかということは、いずれ詳しく考察したいと思います。本節ではその触りの部分を述べただけであり、尚且つ、極端な例だけを示しています。
 どうしても私の経験範囲内で述べているので、妻の方の「問題」と見えてしまうかもしれませんが、夫の側にこういう傾向がみられるという例もきっと少なくないと思います。なぜなら、「境界例」的な人は「境界例」的な人と一緒になるケースが多いと私は考えているからであり、夫の方に「境界例」傾向が強くみられるというケースも確かにあるのです。
 本節で示したかったことは、「愛」と「生存」の同時的解決として結婚が選択されるということであり、この結婚は逃避の意味合いが含まれてしまうということでした。しかし、この結婚は、当人の抱えている「問題」を解消しておらず、それを先送りにしているという例が少なくないので、いつかその「問題」が再顕在化してしまうという点を述べてきました。

(文責:寺戸順司)





平成28年6月4日公開