<6-5E>私の治療観

<6-5E>私の「治療」観


(生きていけるかどうかの優先)
 本人や家族が心配されていることの一つに、「境界例」は治るのかという疑問があります。それに関して、私の考えるところを綴ることにします。
 まず、私の基本的な姿勢は、その人が「治る」かどうかよりも、その人が生きていけるかどうかが優先されなければいけないということなのです。従って、「症状」や「後遺症」があっても、その人が生きていけるようになれば、それで「良し」と思うわけです。逆に、「病気」がなくても、その人が生きていけないのであれば、それは「問題」となるわけです。

(発達的観点は楽観をもたらす)
「境界例」に関するテキストを開くと、「治療」に関してはとても悲観的なことが述べられていたりします。「治る」ということに重点を置くと、悲観的になってしまうかもしれないと、私はそう思うのです。
 私は発達的観点を取り入れていますので、「境界例」は人生の一地点で立ち往生してしまった人たちであると理解しています。従って、彼らの発達段階が一段上がればいいということになるのです。多くの人たちがそこを乗り越えているのだから、彼らにそれができないとも私は思わないのです。
 ある臨床家の先生は「発達的観点を有するカウンセラーはクライアントに厳しくなる」ということを述べられていて、私はどこかでそれを読んだ記憶があるのです。確かにそういう一面がないとも言えないのですが、それでも、発達的観点は「治療」に楽観をもたらすと私は信じています。

(変容するが喪失しない)
 人生の一地点で立ち往生してしまい、そこで「停滞」しているわけですので、それが動き始めるということが「治療」の第1歩となるのです。ところが、現実にはこの第1歩がなかなか達成されないのです。
 発達段階が一つ進むことを、仮に、「古い自分から新しい自分へ移行する」ことというように捉えてみましょう。彼らは「新しい自分」に向かい始めても、「古い自分」にしがみつき、そこに戻ってしまうことが多いのです。「古い自分」が捨てられないのですが、そこに失いたくないと彼らが思うものがあるためだと私は考えています。それを失うくらいなら「古い自分」のままでいいと、彼らにはそんなふうに思えるのかもしれません。
 彼らはそう信じているのだと私は思うのですが、実際には、「新しい自分」になっても、それを失うことはないのです。それもまた形を変えるのです。失うのではなく、自分が変容するので、それもまた変容するだけなのです。彼らはそのことを知らないのだと私は思うのです。決して喪失にはならないのです。
 例えば、失いたくないものが「親の保護」だとしましょう。今、この人は「親の保護」を過剰に必要としています。この人が一段成熟すると、今必要としているような「親の保護」が必要ではなくなり、もっと違った形の「親の保護」を必要とするようになるでしょう。この人が以前と変わってくると、親もまた態度が変わることになるので、両者がうまく適合すればいいということになります。そうすると、それは形が変わっただけなのであって、失ったわけではないということになるのです。

(モラトリアムを有効活用しないこと)
 どんなことにもモラトリアム(猶予期間)とみなすことができる期間があります。学校に入学すると、しばらくは学校に適応していくための時間が設けられていたりします。就職やアルバイトでも、見習い期間や研修期間というものがあります。これらはすべてモラトリアムに該当するものです。
「境界例」傾向に人たちは、こういうモラトリアムを有効に活用できないという「症状」があるのです。これを「症状」として取り上げる臨床家が意外と少ないと私は思うのですが、これは一つの「症状」であり、「同一性拡散」と関係しているものであります。詳しくは「同一性拡散」の項目で取り上げることにします。
 モラトリアムを有効活用しないというのは、つまり、その期間に本当にしなければならないことをそっちのけにして、それ以外のことに一生懸命になってしまうということです。例えば、仕事の研修期間において、本当はそこで仕事を覚えることが求められているのに、自分が好かれているかどうかとか、そういう他の事柄ばかりに従事してしまったりするということです。
 適応能力が大きく損なわれているといった「境界例」傾向の人たちは、無職で、家に引きこもっているという状態であることが多いのです。彼らは親に養ってもらっていることになるのです。そこは彼らの事情があるのでいいとしますが、これもモラトリアムなのです。
 親に養育能力がある限り、その人は養ってもらえるでしょう。しかし、親もいつか限界が来るのです。親が定年退職して収入が減るという事態になるのです。それでも、親が養える間というのは、彼らにはモラトリアムになるわけであり、このモラトリアムを有効に活用しなければならないのです。
 現実には、彼らはこの期間を有効活用せず、ただいたずらに時間だけが過ぎて、親が限界を感じ始めたころに、困り果てた親が相談に見えられるのです。もう後がないという状態まで、彼らは引き延ばしてしまうのです。
 できることなら、彼らはこのモラトリアム期間中に「治療」に着手すべきなのです。彼らは、この期間中に、自分を「良く」していくことをせず、親や世界を恨むことに従事したり、過去の後悔に生きたりして、まったく有効に活用できないのです。
 私の経験では、彼らの「治療」はかなり手遅れの状態から始められるのです。10代や20代の若いうちであれば、パーソナリティにまだ「柔軟性」があるので、変容の可能性が高いのですが、30代や40代、それ以上の年代になると、パーソナリティがかなり「堅固」になってくるので、なかなか変容していかないのです。
 それでも「治療」に着手するだけましな方です。親が死んで(現実に見放されるという体験になってしまう)、以後、十数年、生活保護を受けている人も私は知っていますが、この人は50代になってもモラトリアムを続けているのです。

 さて、「治療」に関しては、とても大きいテーマであるので、改めて取り上げることにします。本節では、その下準備の意味も込めて、私の「治療観」を、大雑把ではありますが、概観してみました。

(文責:寺戸順司)




平成28年5月25日公開