<6-5C>愛こそはすべて

<6-5C>愛こそはすべて


(愛に生き、愛に失敗する人たち)
 歌謡曲のような副題を付けましたが、「境界例」傾向のある人は「愛」に一生懸命になられるのです。「愛」に生きるという感じの人もあります。でも、具体的に言えば、その愛は「愛される」という一面のみを指しているのです。
 彼らは「愛」に生きるのですが、その「愛」は失敗へと運命づけられているかのようです。彼らの大部分はあまり幸せな夫婦生活を送らないのです。未婚の人であっても何かと不安定な交際をすることが多いように思います。人間関係そのものが不安定なので、恋人との関係も同じように不安定になってしまうのでしょう。「愛情関係」は常に破綻してしまうのです。
 この不安定さの原因は自己表象および対象表象そのものの不安定さにあるのですが、それは後々述べることになるでしょう。

(彼らには愛された経験がある)
 さて、彼らは相手から「愛される」ということを至上命題にしてしまうのですが、愛されるために頑張れば頑張るほど、相手から見捨てられるという結果を招くことが多いのです。これは後に述べる「逆転現象」の一つであります。
 彼らが「愛される」ということを過度に求めるのは、自分が「愛されない」と信じているからだと思うのですが、ここは誤解のないように述べておかなければなりません。
 彼らは人生の途上で、普通に愛され、普通に受け入れてもらえていた時期があるのです。彼らが根っからの嫌われ者であるとは限らないわけです。人生のある時期から、あるいはある経験をしてから、自分が愛されるかというテーマが彼らの中心問題になってしまうようです。
 彼らの中には、「親から愛されなかった」という訴えをする人もあります。当人にはそれが真実であるように思われているのですが、現実にはそうでないことが多いのです。本当に愛されなかった人は、そういうことを言わないのです。一度でも愛された経験がなければ、自分が愛されていないということが分からないからです。そして、本当に親から愛されなかった人は、速やかに親から離れ、親を「断念」することの方が多いように私は思うのです。

(自己価値のための愛)
 彼らが「愛される」ことを望む背景には、自分が愛される価値があるかどうかという自己価値の確認の意味合いが含まれているように思うこともあります。
 言葉は悪いかもしれませんが、彼らの「愛」はしばしば自己本位なところが見受けられるのです。自己価値の確認のためにそれが必要なのであって、相手がどう感じているかとかどう思っているかという点は無視されることもあるように思います。
 従って、愛されないということ、相手から嫌われ、見捨てられるということは、そのまま自己価値の喪失につながる体験となってしまうのです。自己の価値がもはや確認できなくなるのです。単に相手と別れた以上の喪失を彼らは体験してしまうのだと思います。
 あるいは、いささか図式的ですが、次のように言うこともできるでしょう。相手が「良い」相手であると体験されている時、その「良い」相手とつながっている自分が「良い」自分として体験されるのです。「良い」相手と良い関係を築いている時には「良い」自分が体験され、この時、世界も「良い」ものとして体験されているのです。自分と相手と世界とは分かちがたく結びついているのです。
ここに、どこか一つでも「悪い」要素が入り込むと、自分も相手も世界も、すべてが「悪」に変容してしまうのです。詳しくは「スプリッティング」という項目で述べるつもりでいますが、すべてが悪くなってしまうのです。そして、これは苦しいことなので、何が何でもそれを回避しようと懸命になってしまうのです。この時、すべての「良い」ものが失われているのです。そのように体験してしまうのだと私は思います。

(「他者巻き込み型」の愛)
 私は彼らが「見捨てられ不安」から相手にしがみついたりするのではなくて、すべてが「悪く」なってしまうことを回避したいために相手にしがみつくという側面もあるように思うのです。彼らにはこの苦しみを繰り返してきた歴史が見られることもあるのです。
 従って、この「愛」は「他者巻き込み」の一つの現れとして私は理解しています。自分を維持するために「自分を愛してくれる他者」が必要となるのだと思います。そして、その目的のために、相手に「愛」を強要したり、相手にしがみついたり、こちらを振り向かせるために攻撃したり、様々な手段がとられるのだと理解しています。
 愛の対象となっている相手からすると、この「愛」はとても重たいものとして体験されることと思います。相手はこの人から距離を置きたくなるのでしょう。しかし、相手が距離を置くことは許されない行為なので、そこは激しく非難しなくてはならなくなるのだと思います。
 DVの問題が常にこういう形で生じるとは限らないのですが、私が経験した限りでは、こういう例もけっこう見られました。しばしば「被害者」立場の人が「DV騒ぎ」をするのですが、これは失ったものを取り戻そうとする行為であるように思われることもあります。

(相手との差異が受け入れられない)
 仮に、彼らの「愛」が上手くいったとしても、やはり長く続かない例が多いように思います。彼らの「愛」とは、「相手が自分と同じであること」という条件があるからです。相手が普通にしていることでも、この人にとって「差異」が感じられると、それは許せないことになってしまうのです。
「境界例」傾向の女性と交際していたある男性は、「彼女と一緒にいると自分であってはいけないような強制を感じてしまう。自分が訳が分からなくなる」というようにおっしゃられていましたが、私にはその気持ちがよくわかるような思いがしました。
 しばしば、彼らと交際している相手側は、「なんで自分がそこまで言われないといけないのか分からない」という感想を述べることもあります。自分は普通のことをしているだけなのに、ものすごく怒りを向けられると言うのです。そして、それがそんなに怒るようなことだろうかという疑問を呈されるのです。つまり、内容と怒りとが不釣り合いだと言うわけです。相手側の人は、結局、彼らのこういう傾向に耐えられなくなるのです。
 愛されようと思って一生懸命にやればやるほど愛を失う結果になるというのは、なんとも皮肉なことであります。そして、彼らが最も恐れている事態、「自分が見捨てられる」という事態を、自ら招いてしまうのです。

(彼らは愛されない人間ではないということ)
 でも、ここはきちんと区別をしておかなければならないことです。彼らの行為が愛されなくなる結果を導いてしまうのであって。彼らが愛されない人間であるということではないという、この区別です。彼らの行為が相手を遠ざけてしまう結果になるのです。この点に関しては、次節で取り上げたいと思います。

(文責:寺戸順司)




平成28年5月25日公開