<6-5B>豹変

<6-5B>豹変


(揺れ動きの中でしか生きられない)
「境界例」傾向の人たちは、基本的に能力や魅力にあふれていて、状態がいい時には、彼らは自分の能力や魅力を如何なく発揮するのです。しかし、この状態が少しでもぐらついてしまうと、一気に崩壊するのです。
 絶好調からどん底へと、急転直下する感じです。この急転直下ぶりが「境界例」らしいところであります。あまりにも脆く、些細なことでも崩れてしまうのです。そして、状態が悪くなっても途中の段階で自分を維持することもままならず、落ち始めたらノンストップでとことんまで落ちてしまうという在り方なのです。
 この現象は「気分変調」と見做されるのですが、私にはそれが彼らの在り方、存在様式であるという認識をしています。そういう揺れ動きをしなければ生きていけないという人たちなのだと考えています。
 この揺れ動きが短時間で生じることもあります。良くなったり悪くなったりがコロコロ入れ替わるという人もありますが、基本的に、一旦、落ちてしまうと、なかなか上がれないという人の方が多いように思います。落ちる時には一気に落ち、上がる時には一気に上がるのですが、その間の落胆状態が長く続くことが多いように思います。
 状態が悪くなり、それが継続してしまうのですが、その時に彼らが経験する感情や気分は、落胆であり、憂鬱であったりします。しばしば「うつ病」と診断される例もあるのですが、これは従来の「うつ病」の鬱とはいささか趣が異なるのです。それに関しては別に述べることにします。

(「ウラオモテ」の欠如)
 状態が良い時と悪い時とで彼らの言動や態度もまったく異なるのですが、それは文字通り「豹変する」と形容できるものです。
 ある母親は「境界例」傾向の強い子供のことで相談に来ました。母親は言います。「子供は、怒る時にはメチャメチャ怒るし、そうかと思うと、甘える時にはベッタリ甘えてくるんです。子供を見ているとゾッとするんです」
 母親は子供の何に「ゾッと」しているのでしょう。私は尋ねてみましたが、「ゾッとするとしか言いようがないんです」と、母親自身それが明確にできないようでした。そこで、私は思うところを述べてみました。
「怒る時には徹底的に攻撃するし、甘えるときはこれ以上ないほど純真に甘えてくるんでしょうね。子供には裏表がないという感じではないでしょうか」
 母親はすごく驚かれました。しばらく考えて、「確かにそんな感じがします。裏表の激しい子供だと思っていたけど、よく考えると裏表がないのではないかと思えるようになりました」と語りました。
 ここはよく誤解されるところです。「境界例」傾向の人はその時々の状態で「豹変」するので、周囲の人はついつい裏表の格差が激しい人だと見てしまうのです。ところが、実際には裏表がない、正確に言えば「ウラ」の部分がないのです。
 上記の子供の例で言いましょう。もし、親に対して不満があり、親にその不満をぶつけているという場面があるとして、ある程度「健常」であれば、相手に怒りをぶつけているけれど、好きな親でもあるのでどこか抑制が働くものです。好きでもある相手なので、怒りをそのままぶつけることが憚れることもあるでしょう。しかし、この子が母親に怒りをぶつける時には、そういう抑制や憚りがまったく感じられず、容赦なく徹底的にやってしまうのです。
 また、親に甘えるという時には、この間は悪いことをしたから「いい子」にしようといった反省とか媚びへつらい、「今後のために母親の機嫌をとっておこう」といった打算が働くこともあるでしょう。でも、この子が母親に甘える時には、そういう「ウラ」の部分がまったく欠落しているのです。甘える時には純真そのものなのです。
 おそらく、母親が「ゾッと」するのは、こうした変貌を子供がいとも自然にやってのけているというところにあったのではないかと私は思います。

(他者の「ウラオモテ」で苦悩する)
「ウラオモテ」の話が出たついでに、少し脱線します。
 私たちにはそれぞれ「裏表」があります。自分にも「裏表」があるし、他の人にも同じようにそれがあるということを、私はそのまま受け入れることができます。
 大体、中学生くらいになると、子供が顔を使い分けるようになると言います。先生に向ける顔、友達に向ける顔と使い分けができるようになるのです。友達のAちゃんに見せる顔とB君に見せる顔とが違うといったこともできるようになります。
 私が中学生の時、いじめっ子がいたのですが、彼は私と一対一の時にはとても親し気に接してくるのです。彼が彼のグループと一緒の時だけ、彼は私に冷たいのです。当時、彼がどうしてそういうことができるのかと不思議でした。今から思うと、彼は顔を使い分けていたのだということが理解できるのです。
 中学生くらいの年齢になると、子供はそういうことができるようになります。自然にそういうことをするようになります。しかし、これに混乱してしまう場合も少なくないように思います。どれが相手の本当の顔、本心か分からないということで悩んでしまうこともあります。
「境界例」傾向の人たちのことを伺っていると、結構な確率で中学時代に最初のつまずきを経験しているのです。私は上記の事情と無関係ではないと考えています。
 中学時代に不登校になり、その後の人生がまったく上手くいかないという20代の女性クライアントは上述の困難を述べています。彼女の話を要約して記すと次のようになります。
「他の人たちを卑怯だと思うことがある。でも、それが当たり前のことのようだ。私にはその当たり前のことが分からない。私には彼らが分からないし、怖い。何を考えているのか分からない。顔はにこやかでも心の中でどう思っているか分からない」
 彼女は周囲の人が持つ「裏表」のことを言っているのだと思います。周囲の人はそれを当たり前のこととしているけれど、彼女にはそれが分からないと言っているのです。そして、彼女が恐れているのは、他人の「表」の面ではなくて、表からは見えない「裏」の面であるということを伝えてくれているのだと思います。

 本節では「境界例」傾向の人が示す「豹変」について思うところを述べてきました。しばしば彼らは「裏表」の激しい人と見做されることがあるのですが、本当は「裏表」がないのではないかということであり、その「裏表」の欠如で苦しんでいることも多いように思います。

(文責:寺戸順司)




平成28年5月25日公開