<6-2>本章の目的

<6-2>本章の目的

(「境界例」は理解可能であること)
 本章の目的は「境界例」を理解することは可能であるということを示す点に
あります。私たちは彼らを理解することができるし、彼らもまた自分自身を正し
く理解することが本来的に可能なのです。その一助となることを目指します。
 ちなみに、今、私は「本来的に」という言葉をわざわざ挿入したのですが、彼
らが自分を理解するという時、しばしば間違ったやり方をしてしまうことが多い
と私は考えており、そのせいで彼らは自分が分からないという体験をしてい
まっているのだと思うのです。でも、そのことは、彼らが本来的に自分を理解
できないという意味ではないので、そこを強調しておきたかったのでした。

(テキストに関する不満)
 さて、「境界例」に関しては優れたテキストがたくさん発行されています。勉
強される方はそうしたテキストで学ばれる方がよろしいかと思います。私が述
べることは、あくまでも私個人が経験し、考察したことなので、おそらく、多くの
偏向に満ちていることと思います。
 ただ、私はこれだけは断言しておきます。そうした優れたテキストをいくら紐
解いても、それによって「境界例」を好きになることは、まず起こり得ないという
ことです。多くのテキストは、正確な記述がなされているけれど、彼らのことを
好きになることに貢献せず、さらにその逆の結果を導いてしまうことも少なくな
いように私は思うのです。
 そういう不満、流布しているテキストに対する不満も私にはありました。この
ことも本章を書く動機と目的の一つだったのです。

(一地点で立ち往生してしまう人たち)
 発達的観点を採用すると、「境界例」とは人生のある一地点で立ち往生して
しまっている人たちと見ることができます。そこでつまずいてしまって、先に進
めない人たちであります。同じことは「神経症」でも「精神病」でも言えることな
のです。従って、発達が前進するということが「境界例」の「治癒」となるわけで
す。発達的観点、「治療」に関する事柄はいずれ詳しく取り上げる予定をして
います。
 彼らは発達上のある地点でつまずき、以来、そこで立ち往生してしまってい
ます。一方、他の人たちはそこでつまずいてもどうにか前に進むことができて
います。前進することのできた人たちは、立ち往生している人たちよりも優れ
ているとは言えず、ただ運が良かっただけなのかもしれません。

(誰もが通過した地点)
 また、どの人も「境界例」的だった時期があるのです。そこを通過できる人も
あれば、そこでつまずいてしまう人もあるということです。
 人生には二度、人が「境界例」的になる時期があると私は考えています。一
つは幼児期で、マーラーの言う「最接近期」に該当する幼児です。もう一つの
時期は青年期で、自我同一性形成のテーマに取り組む年代の人たちです。この両時期にある人は、「境界例」ではなくとも、「境界例」的な認知、振る舞いをするのです。

(我々は「境界例」と共通の体験を持っている)
 上記のことは、言い換えれば、私たちはどの人も、「境界例」を理解するため
に必要な経験を本当はしているということなのです。自分の経験を振り返って
みれば、「境界例」の人が見せる振る舞いや思考と同じようなことをしていた
経験が見つかるものだと思います。
 例えば、あなたには以下のような出来事をこれまでの人生で経験したことは
ないでしょうか。
 あなたを叱った母親に、あなたを叱ったことを後悔させたくて、家出したり、
ハンガーストライキを起こしたり、悪いことをしたという経験はないでしょうか。
 自分がやろうと決めていたことを家族が先回りしてやってしまい、それで家
族に憤ったという経験はないでしょうか。
 壊してからでないと捨てられないものがなかったでしょうか。
 友達の○○君の家に生まれていたらなあと思ったことはないでしょうか。
 その時は思わずカッとなって喧嘩してしまったけど、その後で激しい後悔に
襲われたという経験はないでしょうか。
 友達が得意分野で能力を発揮しているのを見て、嫉妬したり、自分が卑小
に思えたり、友達が今までとは違った人のように見えたり、そういう経験はな
いでしょうか。
 昨日までは友達だったのに、今日は敵になってしまったとか、その逆のパ
ターンなどを経験したことはないでしょうか。
 他にもたくさんの例を挙げることはできるのですが、もし、上記のような経験
をあなたがしているとすれば、その経験は「境界例」を理解する際にとても助
けになるのです。
 また、このことは、「境界例」の人たちが経験していることは、「健常」な人た
ちの体験から、それほど隔たったものではないということをも示しています。

(多面的に考察するということ)
 本節では、本章の目的として、「境界例」を理解することは可能であるという
こと、そのために必要な経験を私たちはしているということを述べました。
 以後の記述において、私はできるだけ様々な角度から「境界例」を考察した
いと考えています。そのため、同じことを角度を変えて記述している箇所もたく
さん出てくると思います。繰り返し、同じことが語られるのは、読む側にとって
も煩雑になるとは思います。しかし、一つの現象に対して、この角度から見る
とこう見える、別の角度から見るとまた違ったふうに見えるということは、「境界例」といったテーマでは特に、疎かにしてはいけない部分だと私は思うので
す。あまりに「一面的」な見解は誤解を招くことが多いと私は考えています。で
きるだけ「多面的」に見ていきたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年5月24日公開