<6-10G>同一性拡散:時間的展望の拡散(2)

<6-10G>同一性拡散:時間的展望の拡散(2)

 時間的展望の拡散は、奇妙な切迫感や諦観として体験され、あるいはニヒリズムや無気力とも関連があるということを前節では述べました。それと関連して、時間的展望の拡散は疲労感とも関連すると私は考えています。
 この状態に陥る人たちは疲労感を訴えることも多いのです。本人が直接訴えなくても、とても疲れているように見えることも私は経験します。実際、彼らは外的には大した活動をしていないにも関わらず、非常に疲れているのです。
 確かに、社会が不安定になり、見通しが立たないというような状況でも、社会全体に倦怠ムードが蔓延することがあります。個人レベルでもそれがあるのかもしれません。

(時間的展望の拡散は疲労感として体験されることもある)
「慢性疲労症候群」と診断された人が三人ほどクライアントでいました。その名の通り、慢性的に疲労感に襲われ続けている人たちです。身体的な原因もあるのかもしれませんが、私がお会いした限り、彼らは共通して将来の見通しを持っていませんでした。
 一人の女性は、それまで地方でバリバリ仕事をしてきたのでしたが、ある事情で退職することになり、関西に戻ってきていました。彼女は、いくら寝ても、朝から疲労感に襲われ、ひどく活動が制限されていました。カウンセリングを受けに来るのもやっとという感じでしたが、彼女はまったくといっていいほど自分の人生設計を持っていませんでした。彼女は自分の将来のことが何一つなかったのです。
 この女性は、「慢性疲労症候群」の患者会に出席していて、私も興味を持ってその患者会の話を伺いました。患者さんたちは、彼女の話から伺った限りでは、どの人も多かれ少なかれ時間的展望の拡散をきたしているように私には思われました。どの人も未来がなく、将来の設計を持っていないように思われたのです。
 面白いのは、その会で何かを決める時でした。連絡網、連絡方法をどうするかといった議題の時はすんなり話がまとまるのに、今後この会をどう発展させていくかとか、今後どのように患者さんに奉仕していくかといった、将来に関する話し合いの時には、けっこうてんやわんやの大騒ぎになるようでした。積極的にその議論に参加する人もあれば、「そんなことしんどくて考えられない」と不参加を表明する人もあり、何一つ決まらなかったそうであります。
 身体や環境といった外的要因を無視するわけではありませんが、私は時間的展望の拡散が先に生じていて、それにより現在の意味が喪失されるので、現在のあらゆることが疲労につながるものであると考えています。現在の行為が未来の何かにつながることがないので、この行為は単なる強制でしかなくなってしまうからであり、それは当然疲れることだろうと思うのです。現在のあらゆる事柄に意味が失われてしまうとなれば、何をするにも疲れるだろうと私には思われるのです。
 また、当然のことながら、逆のことも生じます。こういう人に一つでも将来の見通しと言いますか、目標とか指針が生まれると、けっこう元気になられることもあるのです。先述の女性も、慢性疲労は続いていましたが、ある習い事を始めることになり、そこからかなり活力を取り戻していかれたのです。

(時間とは生成、発展である)
 さて、時間的展望の拡散ということで、もっとも大きな意味を持つのが、時間は動きや変容に関連するという観点です。
 治療すること、改善すること、向上すること、これらはすべて時間軸の中で意味を持つ行為であります。つまり、今、これを改善することによって、今後このようになっていき、将来もっとこういうことをやっていくといった時間軸の中に於いて、初めてその改善は意味を有するということなのです。
 「境界例」傾向の人たち、あるいは時間的展望の拡散に陥っている人たちは、「治療」を受けるということが極端に少ないのです。それは、彼らにとっては、「治療」ということに関して、「健常」な人が抱いている観念とは全く違った観念や意味合いを有しているからだと私は考えています。
 私が怪我や不調のために「治療」を受けるとします。私が「治療」を受けるのは、今後とも健康的に自分の人生を継続していくためであります。ここでは私の人生の継続が目指され、その上でこの「治療」が私の時間軸上に位置づけられています。そうしてこの「治療」は私にとって意味のある行為となるのです。
 時間的展望が拡散し、将来が喪失している状況では、「治療」は意味を形成しないのです。「改善」や「向上」なども同様で、変化、変容、生成、発展、成長、成熟など時間の経過に関連する一切の概念や行為は無意味と化してしまうのです。
 もちろん、「境界例」傾向の人たちでも、自分からカウンセリングを受けに来ることはあります。でも、それはその場限りの「何か」を得るためのものでしかないことも多いのです。長期的展望、あるいはせめて短期的展望でも構わないのですが、そういう展望をもって取り組むことが彼らには難しいのだという印象を私は受けるのです。

(その場限りの活動性)
 時間的展望の拡散している状態では、あらゆる行為が無目的になってくるものと思われます。当人なりの目的はあっても、それは時間軸上に位置づけられないのです。時間軸上に位置づけられない活動とは、その場限りの活動という性質を強化してしまうようです。
 ある引きこもりの青年は、自分の収集したコミックをピカピカに磨くという作業に従事していました。その作業だけで一日のほとんどが費やされるといった有様でした。コミックをはじめ、本なんてものは触れば触るほど手垢もつくし、読めば読むほど折り目がついたり汚れたりするものです。彼がやっていることは、コミックの時間的な経過を認めず、時間を阻止しようということなのだと思います。それらをいつまでも新品の状態で、不変のまま維持しておきたいということなのだと思います。しかし、皮肉なことに、磨けば磨くほど破損が進むことにもなるのです。だから彼の努力は無意味なのです。
 彼の作業は、対象を一つの状態に維持するという意味合いはあるかもしれませんが、それは将来の何かにつながったり結びついたりしていないのです。むしろ、彼は時間の経過を阻止しようという不可能な目的を遂行しようとしているのです。だから、彼は必ず失敗に終わる計画を実行しているようなものなのです。
 このように、一つの行為は何かの目的や目標と結びつかず、ただの行為に終わるのです。行為のための行為であって、そこから何かが達成されたりすることもないし、次の段階に移行するということもありません。上述の彼は永久に収集品を磨き続けなければならなくなるだけなのです。
 行為や活動から将来や目的性が失われるので、その行為や活動はすべてその場限りという性格を強く有するようになります。刹那的で、今この瞬間に何かがもたらされればいいということになるのです。コミックを磨く彼は、その時には何らかの感情体験を得ているかもしれませんが、それもその場限りで終わる性質のものなのだと思います。ちょうど、手を洗うことが止められないといった強迫的な体験と似たようなものではないかと私は考えています。
 時間展望が拡散した人の生き方とはそのようなものになってしまうのだと私には思われるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



平成28年10月29日公開