<6-10F>同一性拡散:時間的展望の拡散(1)

<6-10F>同一性拡散:時間的展望の拡散(1)

 青年期にある若者は同一性確立の課題に取り組む中でいくつもの困難や壁にぶつかることがあります。それは精神的に「健常」な青年であれ、精神的に「病んでいる」青年であれ、違いはないのです。しかし、本節で述べる時間的展望の拡散は両者をはっきり区別するものであると私は考えています。ある程度「健常」な青年では、躓いたり、困難に直面することはあっても、時間的展望の拡散を示すことはあまりないように私は思います。

 時間展望の拡散についてこれから考察しようと思うのですが、おそらく抽象的な話がいくつも出てくると思います。理解に苦しむという方もおられるかもしれません。それは時間というものがすでに抽象的な概念であるために、やむを得ないという一面があるように思います。できるだけ、具体的に述べていこうと思いますので、どうぞ根気よくお付き合いくださることを願う次第であります。

(時間的展望の二側面)
 選択を回避し、麻痺状態に陥り、青年期が長引くほど、時間体験が歪曲してしまうのです。なぜなら、一つの期間が、終わりを告げることなく、次の段階に引き継がれることなく、延々と続くという状況のために、時間はその意味を通常とは異なったものにしてしまうからです。
 エリクソンによると、時間的展望の拡散による時間体験の歪曲は、次の二つの形で現れることになります。この二つは一つの事象の二側面であるのですが、一応、区別しておきます。
 一つは、自分には時間が残されていないという奇妙な切迫感や危機感として体験されます。まるで死刑を宣告された死刑囚のように、この人は残された時間の短さに嘆き、喘ぐのです。
 もう一つの側面は、自分はすでに取り返しのつかない所まで来てしまったという諦観として体験されるものです。まるで長生きし過ぎたかのように自分の人生を体験しているのです。
 先述のように、両者は一つの事象の二側面であると私は考えています。前者のように、自分には時間が残されていないと体験することは、多少なりとも将来を見ていることになると思われるのです。後者のように、自分はすでに人生の終盤にまで至ってしまったという体験をすることは、これまでの軌跡を見ているという違いであります。
 いずれにしても、時間が残されていないとか、長生きしすぎたといった体験は、10代から20代の若者がするものではないはずであります。失礼な話ですが、それはお年寄りの時間体験様式ではないかと思うのです。

(明日の先に死がある)
 振り返ると、私も一時期、そういう体験をしたことがあります。自分には将来がなく、もはや取り返しのつかないところまで生き過ぎてしまったという感情体験に襲われていた時期がありました。私は私の体験に基づいて時間的展望の拡散ということを理解しているのですが、これを上手く伝えられるかどうか確信が持てないけれども、できるだけ試みてみることにします。
 それは私の将来には何もないという状態でした。確実にあるのは私の死ということでした。私の死だけは間違いなく未来にあるということだけは分かっていました。
 従って、私が明日のことを考えるとすると、明日のそのすぐ先に私の死が見えてしまうのです。明日から死までの間があまりにも短すぎるように思われるわけです。死がすぐそこにあるように見えるためなのです。
 それはちょうど水平線に沈む夕日を眺めるようなものです。私と夕日との間には、相当な距離の開きがあります。でも、いくら離れているとは言え、私が夕日を眺めている時には、現実の距離よりもはるかに近い位置に夕日があるように見えているのです。それは、私と夕日との間に遮蔽物が何もないからなのです。
 旅館から窓を見ると、窓の向こうに水平線に沈む夕日が見えるのと同じように、私のすぐ先の将来を見ると、そのまま私の終末が見えてしまうのです。今の私と私の終末との間には虚無しかなく、それを遮蔽するような予定も計画も一切合財が当時は失われていたのでした。
 この虚無を埋め尽くすべく、強迫的なまでに予定を詰め込んだ時期もありました。めったやたらと活動したのでしたが、結局、それは心身を消耗するだけでした。また、活動した割には実り少ない結果に終わったのも事実です。それは目的を持った活動ではなく、ただ遮蔽物を拵えるためのものだったのだから、それも当然だと今ではわかるのです。
 私は私の時間的展望の拡散をそのようなものとして体験しました。他の人も同じ体験をするとは限らないのですが、私は私の体験したところのものに基づいて論を進めていくことにします。

(将来展望の喪失は大きなダメージをもたらす)
 ところで、将来の展望を失うということがどれほど人にダメージを与えるかということに注意を向けておきましょう。
 例えば社会や経済でも、成長期で右肩上がりの状態では、人々は未来はもっと良くなるだろうという見通しを持つことができたでしょう。それがバブル経済が崩壊した後などに顕著になったのですが、不景気になり、先行きが不透明になると、人々は不安に襲われ、動揺を隠せなくなりました。その頃には自殺や犯罪も急増したことでしょう。将来の展望が持てないということは、それだけ人を揺り動かすのだと思います。そして、来年はもっとこういうふうに悪くなるという予想が立てられたりすることもあるのですが、全く見通しがない状態よりも、悪い見通しでもあった方がましであるように体験されるのだと思います。悪い見通しであれ、何もないよりも、それは人を落ち着かせる効果があるように私には思われるのです。
 個人のレベルでも同じことが該当するのではないかと思います。自分の将来に何もない、見通しがないという状態で生きていくことは苦しいことなのです。悪い見通しでもある方が助けになることもあるのです。こういう状態にある人が悲観的な予測にやたらと囚われることがあるのは、一部には、そのためではないかと私は考えています。

(時間性の混乱)
 時間的展望の拡散は、何よりも、将来の喪失から始まると私は考えています。これはどの年代の人にも当てはまると考えています。
 青年期の若者の場合では、「選択の回避」によって、将来が決定されることなく、将来は永遠の現在の中に失われていくように私には思われるのです。
 そして、将来を失うということは、今現在の意味を失うことにつながります。今やっていることが将来から切り離されてしまうので、その行為はどこにも発展していかないからです。今、これをすることで、将来このようになっているといった展望が失われるのです。そうして、現在がすべて無意味になるのです。
 この現在の無意味さは、ニヒリズムや無気力の傾向を強めることになるでしょう。今日、何かをする、でも、それをやって結局どうなるというのかという疑問が生まれる、やるだけ無駄といった感覚に襲われたりするのです。
 現在の私の行為、努力は、過去―現在―未来という時間軸上において意味を成すものであるので、将来を失うことは、現在の行為や努力の意味を失うことにつながり、ひいては現在の自分自身が無意味であるかのように体験されてしまうわけであります。
 過去は、個人の中で残る唯一のものとなるのですが、現在や未来と関連付けられることも意味づけられることもない過去はそれだけで遊離してしまうでしょう。過去の出来事は時間軸上に位置づけられず、それだけで独立した存在を成すでしょう。つまり、過去は過去に位置づけることができず、独立に動いて、現在や未来に混入してくるでしょう。こうして、過去に起きたことは、現在起きていることであり、将来に起きることであるという関係が成立してしまうのだと私は思います。
 いずれにしても、未来は失われ、現在の意味も喪失してしまうと、過去だけが残り、その過去だけがただ一つの拠り所となるのです。過去に拘泥する人が現れるのは、そうした事情によるものではないかと思うのですが、過去だけが自分に残されているものであり、自分の存在を証明するものとなるために、それにしがみつかざるを得なくなると私は思うのです。従って、自分の存在を維持するためには、常に自分の過去を見続けなければならなくなってしまうのです。
 あくまでも私の個人的な体験に基づく、個人的な見解かもしれませんが、私はそのように考えているのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




平成28年10月29日公開