<6-10B>同一性拡散:選択回避と麻痺状態(2)

<6-10B>同一性拡散:選択回避と麻痺状態(2)~回避から麻痺へ

 青年期にある若者は、自分を明確にし、自分の人生を方向づけていくためのさまざまな選択をしなければならなくなります。彼が望まなくとも選択が迫られるのです。
 これは単に選ぶというだけの問題ではありません。青年にとっては、これまでと違った生き方をしていくという問題でもあります。児童期の頃の生き方とはまったく異なった生き方、世界に身を投じていくことを意味しているのです。もう少し別の角度から見れば、この選択は、親離れをいっそう推し進めることを求めるのです。
 こうして青年は依存と独立の葛藤に立たされることになります。新しい生き方や世界に飛び込むことに対する不安もあり、一方ではそこに向かいたいという気持ちもあったりします。彼は揺れ動き、一時的に不安定な状態に陥ることもあるかもしれません。
 前節で述べたように、それでも青年にはモラトリアムが与えられており、仲間と協力し合い、大人や先輩といった年長者をモデルとしたりしながら、最終的に自分の選択を決断していきます。
 一つを選択することは、他の選択肢を切り捨てることになりますが、それでも、一つの選択は彼を明確に輪郭づけ、方向づけていくことになります。
 青年期をとっくに過ぎてしまった人たちには思い出すことも難しいかもしれませんが、青年はこういう選択を苦労して達成していくのです。決して易しい行為ではないのです。だから青年はつまずいてしまうことがあるわけなのです。
 この苦しい状況に於いて、自我があまりに弱体化している場合、自我はその状況に適切に対応できなくなります。自我が対応できない状況に身を置くということは、自分が潰れそうになるという感覚を体験することなのです。このため、一部の青年たちは、この危険な状況から撤退しなければならないと感じるのです。
 こうして「選択の回避」と呼ばれる現象が生まれてくるのですが、もちろん、上記の撤退だけで生じるものとは限りません。もっと他の要因も絡んできます。例えば、親がその過程を無意識的に妨害してしまうというような例もあります。子供が自分の人生を方向づけていこうとすることが、この種の親には脅威に感じられるのでしょう。ただ、本節ではそこまで話を広げずに、あくまでも青年を中心に据えて論じることにします。

「選択の回避」という言葉を用いていますが、この言葉は誤解を招く恐れがあるように思うので、一言だけ説明しておきます。まず、ここで言う「回避」というのは、選択肢を前にして決めかねていたり、迷ったり、優柔不断に陥っている状態とはまったく別種の状態なのです。それらはある程度の選択の意志を有していながら、最終的な決断をしていない状態であるので、「回避」とは言えないのです。
 また、当人たちは決して自分が「選択の回避」をしているとは体験していないことも多いように思います。当人たちの状況に即して言い換えるなら、それは「選択の回避」ではなく、「選択不可」というのが彼らの体験により近接しているように私には思われます。
 それを第三者が見た場合、彼らが選択や決断を「回避」しているように映るのだと思います。実際、周囲の人たちは、「選択回避」から麻痺状態に陥った青年を見ると、彼が何もしていないように、何も考えていないように見えることも多いのではないかと思います。外見だけで判断すると確かにそのように見えてしまうのではないかと私は思います。その判断は誤解を生み出しかねないので、できるだけそうした事態を避けたいという思いで私はこれを綴っています

 さて、「選択の回避」が生じるのは、その青年の自我がそれに対処できないためであると仮定すると、彼の自我はそれ以上先に進めなくなっているということになります。先に進めなくなるということは、自我は自ずと後方へ向かうことになります。つまり、この状態は退行をもたらすわけです。
 この退行において、青年は麻痺状態へと陥っていくものであると私は考えています。しかし、「選択の回避」から麻痺状態に至る経路にはいくつかのヴァリエーションがあるように私には思われます。以下、そのいくつかを述べていくことにします。

 まず、すべてを「他者に委ねる」という方策を取る例があります。自分が主体的に選択していくことを回避して、選択を他の誰かに一任するというやり方であり、これによってかろうじて青年期をやり過ごしたという例もあります。この方策でどうにかこれまで生きてきた一人の男性事例は次節で取り上げたいと思います。
 しばしば問題となる場面は、後になって、誰かのその選択は間違っていたとか、その人に強制されたと訴えるような例です。ある男性は親の言う通りに自分の進路を決定したと訴えます。今になって、親の選択は間違っていた、自分は親の言いなりにさせられてきたのだと訴えているわけです。
 この男性は気づいていないのです。もしくは忘れてしまったのだと思います。当時、彼の方が先に選択と決断を回避していたのではなかったかと、私にはそう思われるのです。基本的にその逆はあり得ないと私は考えています。つまり、親が強制したから彼が自分の決断と選択を放棄したのではなく、彼が先にそれらを放棄していたから親の言う通りにしたのだと思われるのです。
 こうして、この男性は自分の人生が上手く行かないのは親のせいだと責め続けていたのでしたが、これは問題がすり替わっているわけです。親の問題ではなく、彼の問題だからこそ、彼は親の言いなりになってきたのです。ところが、彼は自分には問題がないという立場をあくまでも固持していました。彼はそこに取り組めるほどには自我が強くなかったのです。

「選択の回避」のヴァリエーションのまた別の方策として、過度に内向する人もあります。振り返ると、私自身も青年期にこういうことをしていたように思います。
 何かを選択するということは、心的エネルギーが外界に向かっていなければできないことです。ところが、選択を回避しているために、心的エネルギーは外に向けられることが極端に少なくなるので、その分、そのエネルギーは内に向かうことになります。
 心的エネルギーが内に向かうということは、その人を過度に内省的にします。彼は過去のことをあれこれと考え、反省し、自分の何が良くなかったのかなどをいろいろ吟味するようになります。
 しかし、こうした内省は大部分が不毛な作業となってしまうのです。なぜなら、この内省は何かを改善するためになされるのではなく、成長に方向づけられているわけでもないからです。いわば内省のための内省といった感じが濃厚になるわけです。
 誤解を招く恐れを覚悟して言えば、この内省は極めて「自閉的活動性」であるわけなのです。それは「社会化されていない自己中心的言語」で自己に語られるものなのです。従って、この内省は現実に即していないこともあり、場合によっては「妄想」に近いものになることもあるように私は思います。
 こうして、彼は将来を選択していく代わりに、過去を反省したり、ひたすら考え続けたりして日を送ることになるのです。彼の立脚点は現実から遊離してしまい、人によっては、夢想家のようになったり、実現不可能なほど大掛かりな計画を練ったり、不平不満家になったりするのですが、現実に目が向けられることがほとんどなくなるのです。
 この状態に陥った一人の青年がいましたが、彼はひたすら自分の世界を構築し、夢想することで大半の生活時間を過ごしていました。彼はそれを私に話してくれるのですが、少しでも私が現実を想起してしまうようなことを言うと、彼は激しく怒り出すのでした。彼は現実に向き合えないまま、モラトリアムを空費していたのでした。

 本節では「選択の回避」から麻痺状態へと至るヴァリエーションについて取り上げています。
 ただ他人の指示に従うこと、勤勉なほど熟考することという状態を述べましたが、これは退行が児童期の段階にあることを示しているものと私には思われます。私の経験では、この状態にある人はまだ専門家を頼ることができるように思われるのです。
 これより退行が進んでしまった場合、つまり乳幼児期や胎児期あたりまで退行してしまうと、事態はもっと深刻になり、なかなか周囲の人を頼ることもできなくなります。それは次節において述べていくことにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)