<6-10A>同一性拡散:選択回避と麻痺状態(1)

<6-10A>同一性拡散:選択回避と麻痺状態(1)

 人は発達の途上において、それぞれの発達時期に応じた課題を課せられます。児童期には児童期の課題があり、青年期には青年期の課題というものがあります。老年期に至っても、その時期の課題というものが私たちに課せられてくるのです。私たちはその時期に課せられる課題を克服することが求められるのです。
 青年期には同一性の確立という課題が課せられます。自分を確立し、方向づけ、人生を踏み出していかなければならないのです。恐らく、この課題は生涯においてもっとも重要且つ困難な課題ではないかと私は思います。青年たちは壁にぶつかったり迷ったり、時には危機に瀕したりしながら、その課題に取り組むことになり、やがてはそれを達成していくことになります。

 まず、青年期ということと同一性という課題について概説しておくことにします。
 青年期とは何歳から何歳までを指しているのかという疑問に答えることは少々難しい側面があります。青年期は第二次性徴の開始とともに始まるという見解があるのですが、私はこれに異論はありません。しかし、どこで青年期が終了したと考えるかについては、あまりはっきりとは言えないように思います。
 青年期の課題を達成すれば、青年期は終了すると考えることもできるでしょう。でも、この同一性の課題に早い段階で取り組み始める人もあれば、もっと後になって取り組む人もあり、そこには個人差があります。当然、その達成ということにも早い遅いといった個人差が生まれることになるので、一概に言えないという面があるように思います。
 大体、中学生から大学生くらいまでの年代、14歳くらいから22歳くらいまでの年齢層をここでは青年期と呼ぶことにしているのですが、あくまでもそれは、どの人もそれくらいの年代でこの青年期の課題に直面することが多いということを意味しているに過ぎないのです。そういうものとして理解していただければと思いますし、あまり客観的な年齢ということに拘らないようにと私は願うのです。
 同一性というのは、これはとても曖昧な概念です。「私」という一貫した確固とした感覚としか表現しようのないものです。かなり簡略化して言えば、同一性確立とは「私」の確立であり、同一性拡散とは「私」の拡散、喪失といった意味として解することもできるでしょう。
 同一性の達成という課題は、達成することの難しい課題であると私は思いますし、そのためにはそれ以前の課題が達成されていることなど、さまざまな条件が求められるのです。それに、第二次性徴が始まって、身体的にも性的にも青年は以前とは異なってくる自分を経験してしまうのです。それは青年を動揺させることにもなるでしょう。ただでさえ困難な状況にある中で、さらに困難な達成課題を課せられてしまうのです。従って、青年期にある若者たちは、一時的にであれ、同一性拡散を経験することもあります。その点では「境界例」でも「非境界例」でも違いはないと私は思います。それでも、ある程度心の「健康」な青年は、危機に陥っても、どうにか危機を脱して、この課題を達成していくのです。

 同一性拡散は「境界例」の基本的な「障害」であると考えられているので、できるだけ丁寧に見ていくことにします。その際、エリクソンの同一性拡散の記述や分類を参照しながら、私見を交えて述べることにします。
 なお、エリクソンの分類を下敷きにして論を進めていくつもりでおりますが、この分類は相互に関係し合うものであるという観点を見失わないようにしていただきたいのです。それぞれを個別に論じるとしても、それらは相互に関連性を有しているのです。
 エリクソンは、親密さ、職業選択、競争場面、自己定義に関する場面などに青年が身をさらす時に、同一性拡散状態に陥ると述べています。これらの場面は、自分が問われる場面であり、嫌と言うほど自分に向き合わされるという場面であると言えそうです。
 こういう場面に直面して、青年たちは危機感を覚え、自己が崩壊するような体験をしてしまうのです。それが同一性拡散、それも急性の同一性拡散の体験であるということなのです。

 そこまで急激な拡散でなくても、青年たちは自分の人生を方向付け、自己に関する様々な選択をしていかなくてはなりませんし、それは葛藤をもたらすこともあるでしょうし、停滞してしまうこともあるでしょう。彼らは自分自身と自分の人生とに関して、大いに悩み、時には停滞したり、自己を見失うということもあるでしょう。
 でも、青年たちには救いがあるのです。自分の人生を方向付けるという課題に関しても、時間をかけてそれをしていくことが許されているのです。これを猶予期間(モラトリアム)と言ったりするのですが、彼らにはそういう時間が認められているのです。
 モラトリアムに加えて、仲間の存在も彼らを助けることになると私は思います。自分が抱えている苦悩を友達も抱えていたりするわけです。自分の苦悩は仲間の苦悩でもあるわけで、お互いに影響し合いながら、助け合いながら、共にその過程を歩んでいくことになるのです。青年が孤立していないということは、それだけで救いになると私は思うのです。
 時間をかけ、仲間と歩調を合わせながら、青年は自己を形成していきます。さらに、救いとなるのは大人の存在だと思います。彼らは反抗期(この言葉は語弊があるように思うのです)にあると言われるのですが、決して大人に反抗しているのではなくて、意外にも、大人と接することを欲している青年たちも多いように私は思うのです。特に理想化できる大人たちと接触したいという気持ちはけっこう強いのではないかと私は思います。
 この大人は、親であることもあれば、学校の先生であることもあります。アルバイト先の店長さんであることもあるでしょう。近所のおじさんやおばさんということもあるでしょうし、親戚であることもあるでしょう。時には、歴史上の人物やスターであることもあります。青年たちはそれぞれ、自分の導き手となるような大人、モデルとしたい大人、理想化できる大人を有しているものではないかと私は考えています。
 青年は同一性の確立という課題のために、時間(環境も含む)が与えられ、共に歩む仲間とともに、大人を参照しながら、徐々に自分に関する様々な選択をしていきます。職業や進路の選択をしていき、人生計画を立て、自分の将来に展望を持つようになるのです。

 何かを選択するということは、決断が求められ、その他の選択肢と可能性を削除することをも意味します。しかし、一つ、自分に関する選択がなされ、決断されると、たとえそれによってその他の可能性を切り捨てることになっても、自分がそれだけ確かになっていくという経験をするものです。
 この選択し、決断していくという行為は、従って、苦痛を伴うことでもあるわけです。私たちは選択することによって、自分の可能性を狭め、多くのことを断念しなければならず、今後は選択した事柄による拘束を受けることになるからです。
 青年たちはこの大きな葛藤をもたらす選択を回避したくなるかもしれません。これを回避してしまうということは、モラトリアムが有効活用できなくなることを意味し、仲間と歩調を合わせることなく、孤立してしまうことを意味するものと私は思います。
 この孤立は、青年たちに、自分だけが取り残されたという感覚に陥らせるかもしれませんし、みんなとは違うという違和感を体験させてしまうかもしれません。これらの体験は、青年をして、停滞をもたらすことになるでしょう。それ以上先に進めることを阻害してしまうでしょう。なぜなら、この青年たちは、自分を確立していくことよりも、自分がおかしいのではないかとか普通ではないかもしれないといった感覚と戦うことに貴重な時間を費やしてしまうことになりやすいからであります。
 エリクソンは、こうした選択の回避によってもたらされる孤立や空虚感は、青年たちに退行をもたらすと述べ、こうした状態に引き続いて「麻痺状態」に陥ると述べています。
 麻痺状態に関して、エリクソンは、青年たちが自分はいつまでも選択者のままであるという自由な状態を維持しているものと見ているようでありますが、私には、この状態に陥った人たちがそれほど自由な状態を経験しているようには見えないのです。
 私には、この麻痺状態は、むしろ、いかなる選択も当人に苦痛をもたらすために、身動き取れない状態にあるものと思われるのです。いろんな選択肢がまだ目の前に広がっているというよりは、選択肢を前にしながら立ち往生して、すべての選択肢を遮断せざるを得なくなっているというような印象を受けるのです。

 さて、選択の回避と「麻痺状態」はとても重要な概念でありますので、もう少し具体的に考察していこうと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)