<5-8>初回面接:解説(5)

<5-8>初回面接:解説(5)

(27)
 A氏は困惑を示していました。私はそれを「困ってしまうんですね」と認めています。そこで一緒にもっと困惑しても良かったのですが、私は少し矛先を向け変えます。
 まず、A氏は(26)にて「どうしたらよいかわからない」ということで困惑していました。この時、彼の中では、困惑していると同時に、「どうしたらいいか」という方法や手段に意識が向かい始めています。この部分を推し進めると、技術的なことに関する話し合いが展開していくことになるでしょう。それはそれで必要なことかもしれませんが、ここではまだ時期尚早なのです。
 私は「どうなることが望ましいのか」を尋ねています。これは彼が達成したいと思う最終の姿を描いてもらおうとしているわけであり、それはそのままこのカウンセリングが目指すゴールとなるわけです。
 おそらく、どんな場合でも同じだと思うのですが、向かう最終ゴールがはっきりしていないのに、うまくいくやり方を考えても成功しないでしょう。

(28)
 A氏は「よく分からない」と答えています。一体、この問題はどこに行き着くのが最も望ましいのか、彼の中でも具体的になっていないのだと思います。それは、一つには彼自身が混乱していて、自分の感情などに気づいていないからであり、一つには彼の目標と妻の目標とが明確に区別されていないからだと思います。
 それでも彼は一つの目標を提示しています。「妻に手を上げることがなくなればいい」という目標です。
 まず、彼の挙げた目標そのものを見てみましょう。私にはこれが「消極的」な目標だということが分かります。つまり、何かをするとか、新しく始めるといった積極的な行動が目標の中心となっているのではなく、何かをしないとか止めるとか、消極的な行為が目標の中心とされているということです。
 そして、消極的な目標は、目標としては完全なものではなく、不成功、不達成に終わりやすいのです。例えば、「タバコをやめる」という目標は失敗しやすいのです。でも、「トランペットを習う」という目標は上手く行くのです。そして、「トランペットを習うためにタバコを止める」という目標にしていく必要があるのですが、あくまでも中心となるのは「トランペットを習うこと」であって、「タバコを止める」ことの方にはないのです。また、「タバコを止める」よりも先に「トランペットを習う」を始める方がいいのです。「タバコを止めて」から「トランペットを習う」という順序だと、何事も前に進まないのです。
 こうした例は臨床の場面でも頻繁にお目にかかるものです。「病気を治す」という目標を持つ人がいます。これは積極的に、主体的に何かをするという目標ではないので、消極的な目標なのです。もし、この人が「病気を治して、仕事をする」と考えているのであれば、「仕事をする」という方に当人自身も援助者も関わっていかなくてはならないということです。その人は「治療」と並行して仕事を探し、仕事のことに着手していく必要があるのです。「治してから始める」はしばしば不成功に終わるのです。
 さて、A氏の目標は、要するに「妻への暴力を止める」ということなのですが、多くのDV「加害者」とされる人たちがこの目標を実現していないのです。これは、彼らのパーソナリティにも因があるかもしれませんが、この目標自体が適切な目標ではないからです。必ず不成功に終わる目標の立て方なのです。
 しかし、ここはよく考えなければならないところです。A氏は「妻への暴力を止める」ことを目標として挙げているのですが、この目標は妻の目線での目標であります。言い換えると、これは妻の期待していることなのです。その辺りの疑問を次の(29)の私の発言で取り上げているわけです。
 もう一つ、カウンセリングの理論的なことを述べようと思います。理論によっては、こうしたクライアントの目標、カウンセリングのゴールを明確にして、設定しなければいけないと教えるものもあります。私は、目標はまったくないよりかは、あった方がいいという程度に捉えています。最初からそこを明確にできなくても、回を重ねていくうちに見えてくる目標というものもあるので、あまり拘らないのです。
 次に、クライアントの挙げる目標が、他の人の期待していることであって、彼自身のものでない場合もありますし、私から見て望ましくないと思われる目標を掲げる例もあります。基本的に、私はそれを早急に変えようとは思わないのです。当面はその目標に従うようにしています。
 自分のものでない目標、他者の期待、あるいは望ましくない目標というのは、それを追及していく中でいずれ挫折するものだと思います。その時に方向を修正すればいいと、いささか楽観的に考えています。

(29)
 ここで私は、A氏の掲げた目標が、それの達成が本当にA氏にとって最善なものであるかどうかを考えてもらうことを目指していました。
 先ほども述べたように、A氏が挙げた目標は妻の期待することであって、彼が期待していることとは異なっている可能性があります。また、あの目標には矛盾が含まれていました。しばしばDV「加害者」とされる人たちはこの矛盾に気づいていないのです。
 A氏の場合、妻が激しく暴れる時に、それを止めようとして手を上げてしまうという話でした。彼は、そうすることで、事態がもっとひどくなることを食い止めようとしているという見方ができます。恐らく、A氏は苦しくなってくるのでしょう。そこで食い止めなければならなくなるのは、A氏が耐えられなくなるからではないでしょうか。
 そうするとこういうことになります。「手を上げること」は、A氏にとっては、苦しい状況から自分を守る一つの手段となっているということであります。そして、「手を上げるのをやめる」という目標は、苦しい状況に、自分を守る手段を何一つ持たずに滞在し続けることを意味しています。これは明らかに不可能なことです。苦しくなる状況で無防備になることなんてできないことなのです。
 A氏をはじめ、私がお会いしたDV「加害者」とされる人たちは、それに気づかず、また、根拠もなく自分にはそれができると安易に信じているのです。彼らは何よりも苦しい状況で、「手を上げる」という手段ではなく、自分を守る術を見出していく必要があるのであって、単にその手段を放棄しさえすればいいということではないのです。
 図式的にまとめておきましょう。「古い対処法」を放棄して「新しい対処法」を身につけるという場合、先に「新しい対処法」が身につくということが重要であるわけです。そうすると、「古い対処法」は自然と放棄されていくのです。もし、この順序を逆にすると、つまり「新しい対処法」が身についていないのに「古い対処法」だけを放棄しようとすると、それはいかなる「対処法」も持たずに場面に臨むことになるわけなので、その人にとって、「問題」となる状況や状態がますます耐えがたいものになり、よけいに苦しい体験を重ねてしまうことになります。この時、人によっては、ただ無力な状態に陥ることもありますし、今まで以上に「古い対処法」にしがみつかなければならなくなったりすることもあり、却って逆の結果が導かれることも多いのです。
 従って、「暴力の放棄」という目標は新たな「暴力」を作り出すことにもなり得るのです。「暴力」以外の何かが目指されなければならないということになるわけであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)