<5-24>2回目面接:解説(4)

<5-24>2回目面接:解説(4)

(13)
 プログラムはA氏にはあまりいい体験とはならなかったのです。そこでさらに「何が一番嫌だったか」ということを私はわざわざ尋ねています。こういうことを質問しなくても、A氏の方から話してくれていたかもしれませんが、やはり、私は尋ねたいと思うのです。そして、この質問は、A氏にそのプログラムの「悪口」を言うように勧めているのです。
 断っておきますが、私は同業者たちのことを噂するつもりで尋ねたのではありません。同業者の失敗を喜ぶような趣味は私にはありません。私もよく耳にします。クライアントが以前のカウンセラーの悪口を言ったりするのです。恐らく、私もかつてのクライアントから余所で悪口を言われていることでしょう。
 カウンセラーとクライアントの関係でもそうですし、医師と患者、上司と部下、先輩と後輩、先生と生徒など、あらゆる人間関係で人は自分の気に入らない相手を作ってしまうものだと私は考えています。しかし、どんな人間関係でも、相手との関係で十中八九は無害な体験をしているのです。相手との関係の一割二割のところのものが決定的に許せないということになっているのだと私は考えています。
 従って、クライアントから他のカウンセラーの悪口を私が聴く時、クライアントが言っているのはその2割の経験であるということを考えるのです。その他の8割は、そのクライアントにとって、良い体験ではなかったとしても、無害な体験だったはずなのです。でも、当人には、その2割の部分がとても重要なことになっているのです。
 もし、当人にとって、特に問題でもないことであれば、2割くらいの不満や相手の失敗というのは、気にもならないことなのです。でも、その2割の部分が当人にとってとても重要な何かと関係している時には、その2割がどうしても気になってしまうのです。
 分かりやすく言えば、その2割が当人の「コンプレクス」に関係しているものであれば、相手のことを許せないと体験してしまうということなのです。
 従って、ある人が他者の悪口を言う時、彼が言っているのは他者のことではなくて、彼の「コンプレクス」を語っているということになるのです。そして、悪口ほどそれを如実に表すものはないと私は考えています。
 私はA氏に「何が一番嫌だったか」を尋ねています。A氏がこれに答えたとすれば、その答えにはA氏が抱えている困難や「コンプレクス」が明確に現れるはずであります。さて、A氏はどう答えたでしょうか。

(14)
 A氏は男性インストラクターから詰め寄られた経験を話しています。ちなみに、私はA氏が柔道家だということを、この時、初めて知りました。
 先述のように、ここにはA氏の抱えている困難や苦悩、「コンプレクス」が表現されていると仮定できるのですが、実は、私はこの段階ではそれがよく分かっていませんでした。それがより明確になるのは、4回目の面接の時でした。その時に、もう一度、このエピソードを振り返りたいと思います。
 さて、この男性インストラクターの言った言葉ですが、確かに、その人の発言そのままのことをA氏が再現しているとは限らないかもしれません。でも、彼はそういう内容のことを聞き、受け取ったということは確かであります。
 A氏の表現に基づいて、このインストラクターが言っていることはどういうことかを見てみましょう。
 まず、A氏が手を上げる時には、いつも手加減するようにしているというA氏の努力をこの人は無効化しています。手加減していようとしていまいと、相手が受ける痛みに違いはないのだということでそれがなされています。
 次に、この人は、体格の大きいA氏は、それだけで妻には脅威になるのだということを言っています。つまり、A氏は妻から恐れられて当然だと言っているようなものです。しかし、それは本当にA氏に責があることなのでしょうか。もしかすると、ここではA氏に責任を追及できない事柄までもがA氏の責任だと言われているように彼は体験したかもしれません。
 最後に、結局のところ、A氏のやったことは暴力であり、A氏はそれを認めなければならないとこの人は言っているわけです。
 私の個人的な見解では、このインストラクターさんは、A氏に対して、関わり方を間違ってしまっているように見えるのです。A氏はすでに罪悪感を抱えています。この人はA氏の罪悪感をさらに高めるように働きかけているのです。私はこの人がA氏をきちんと見ているかどうか疑問に思いました。A氏を見ているのではなく、あるいはA氏に向かって言っているのではなく、この人の心の中にある観念を見て、それを表明しているようにも思われるのです。
 それはあくまでも私の個人的な見解なので、脇に置いておくとして、A氏はここで罪悪感をさらに強めてしまうという体験をしてしまったということは言えそうに思います。

(15)
 ここからA氏の妻の、悲痛な訴えがなされます。彼女はA氏に「プログラム」に参加することを求めていました。それ以外の選択肢を彼女は認めようとはしませんでした。そして、今、その「プログラム」がA氏にとって良いものではなかったということが判明しました。妻はその現実を受け入れられないでいます。
 ここでは妻の言うDVがどういうことであるかが示されています。自分の意に反することをA氏がした場合、それはDVということになるようです。
 すでに見てきたように、A氏がそのプログラムで上手く行かなかったことは、彼なりのきちんとした理由があったわけであり、その理由のために彼はプログラムは受けないという決断をされているのであって、決して、妻に反抗しているわけではないのです。彼女はA氏の理由を見ないのです。
 余談ですが、ここでA氏の妻の言葉を見てみましょう。彼女はA氏にはこの「プログラム」が必要なんだ(と私は思っている、信じている)と述べ、その日のうちに結論を出すのは真剣に考えていない証拠だ(と私は考えている)と述べます。私が彼女からの電話を受けた時も、「夫が来たら断ってください(と私は願っている)」と述べていました。
 要するに、彼女は( )で括った部分を決して言葉にしないのです。そのためにすべてが断定されてしまっているのですが、そこには主体としての彼女が語られないのです。主体の感覚が乏しくなっているのかもしれませんし、自己覚知が低いのかもしれません。彼女のことなので、実際のところどうであったのかは私には分からないのですが、私には彼女が主体としての自己を喪失しかけているか、主体としての自己が過度に脅かされているかもしれないと思われました。いずれにしても、彼女のこうした発話スタイルは、彼女のある種の傾向を示しているように思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)