<5-22>2回目面接:解説(2)

<5-22>2回目面接:解説(2)

(5)
 A氏の妻からの電話の話を私はしてしまいました。今から思うと余計なことをしたという気がしています。私は、てっきり、A氏が知っているものと早合点していました。A氏に直接電話していただけませんかと彼女に伝えたので、私は迂闊にもそれでA氏に伝わっただろうと信じ切っていたのでした。彼女は夫に伝えていないのです。
 A氏は、彼の妻に代わって、私に頭を下げます。彼が悪いことをしたわけではないので、謝ることもないのですが、彼はそうせざるを得ないようでした。
 しかし、私は迂闊で軽率でした。A氏の妻の電話は、彼女の「行動化」として見る必要がありました。それが「行動化」であるとすれば、それは彼女が抱えている「問題」の顕在化ということであり、あくまでもそれは彼女に属する事柄なのです。これをA氏に属させることは、却って、A氏を混乱させ、盲目にさせることでしょう。

(6)
 さて、面接の開始ですが、彼は前回のカウンセリング終了後の場面から始めます。
 彼が帰宅すると、妻がすごく怒っていて、約束を破ったなどと喚いて暴れたと言います。初回同様、A氏はその状況を具体的には述べていません。でも、彼がそこで手を上げたことは認めています。
 済んでしまったことは仕方がないのですが、彼がそこで手を上げたというのは、ちょっと拙かったかもしれません。妻は、自分が暴れたから夫が手を上げたとは考えず、私のカウンセリングを受けたから手を上げたというふうに受け取るかもしれません。私のカウンセリングを受けると、夫が暴力を振るうというように関連付けてしまう可能性があるわけです。
 手を上げた夫に対し、妻は「これでもDVではないと言うのか」と詰め寄ります。思い出していただきたいのは、A氏は自分の行為がDVではないと主張しているわけではありませんでした。自分だけに罪があるとみなされることに、彼は同意できないでいたのでした。いずれにしろ、妻の詰め寄りは彼の罪悪感を高めるものであります。
 つまり、これでもDVではないと言うのかという妻の言葉は、言い換えると、「これでもあなたに罪がないと言えるのか」ということになるので、彼は罪悪感を掻き立てられたのではないかと思います。しかし、彼は「うるさい」と一喝して、その場を引き上げました。この時、私が訊いておけばよかったと思うのは、一喝して引き上げるという行為は、彼にとって、新しい態度だったのかどうかということでした。

(7)
 次に語られるのは、その翌日のエピソードです。DVに関する本を妻が買い込んで、それを夫に読めと強要しているのです。妻は、世間と言いますか、権威を味方につけようとしています。つまり、「私だけがそう言っているのではない、著者も世間もみなそう言っているのだ」とA氏に伝えようとしているのです。何が何でもA氏に認めさせようとしているように私には見えるのです。
 おそらく、妻のような人は気づいていないだろうし、そういうことをまったく意識していないでしょう。きわめて無邪気にそれをやっているのだと思います。これはA氏に二重拘束状況を与えてしまうのです。
 これが二重拘束的であるというのは、要するにこういうことです。妻はそれをDVだと言う。本にもそう書いてあるから読めとA氏に求める。この時、「それがDVだと私が言っている」と「それがDVだと私が言っているのではない(他の人が言っている)」との、両方のメッセージを妻は与えていることになります。
 もし、これをやられたら、受け手は、相手の真意が読み取れないとか、困惑するといった体験をするであろうと思われます。さて、A氏はどのように反応したでしょうか。

(8)
 A氏は、パラパラとめくっただけで本を置き、何も言わずに部屋へ引き下がったと言います。妻はパニックになったけど、それには取り合わなかったと言います。よくそれができたと、私は思わず言ってしまったのですが、これは私の本心でした。どうしてA氏にそれができたのか、私は問います。A氏は、「何も言うことができなかった」と答えます。
 今から思うと、A氏という人は、とても自分に正直な人だったように思います。確かに、彼は何も言うことができなかったでしょう。それは妻の送ってくるどのメッセージに応じればいいか分からなかったからでしょう。しばしば、「加害者」立場の人が犯してしまう誤りは、ここで無理して何かを返そうとしてしまうということです。「向き合おう」とし過ぎてしまうのです。
 ここでは、妻の「それはDVだと私は言う。でも、私がそう言っているのではなく、この本の著者たちが言っている」というメッセージがあるので、彼が何か反論しても、「私はそれが間違っていると言う。でも、それは本に書いていることなので、私がそれが間違っていると言っているのではない」と言い返されるのがオチであります。そうなると、その本が正しいかどうかという議論に入ってしまう可能性さえ生まれます。事実、それを延々とやり続けている夫婦にも私はお会いしたことがあります。
 彼は、その不毛な議論に立ち入らないように、上手にかわしているのです。妻は、A氏のその行動を「DV」と見做すかもしれませんが、私にはとても適切な行動だったと思われるのです。メッセージが多重的であるために、彼が何かを言うと、次々に別の事柄に話がすり替わっていく危険性がここにはあるのです。

(9)
 その翌朝、妻は矛先を向け変えてきます。彼女は、A氏が私のカウンセリングを受けるのを止めろと言います。その代り、「DV加害者更生プログラム」に参加するように言い、A氏がその約束したということを持ち出しています。
 実にあの手この手を使うものだと私は思います。次に明らかになるのですが、A氏は確かにその約束をしていました。
 この妻のような人とは、下手に約束をしない方がいいと私は考えています。と言うのは、万一、その約束が果たせなかった場合、彼女には、それは単に約束を果たしてもらえなかったということ以上の意味合いを帯びる経験となるからです。こちらは、約束を破るつもりではなかったし、その約束を果たそうとしたのだけど、いろんな事情のためにできなかったのだと釈明したくなるかもしれません。しかし、彼女のような人にそのような釈明は無意味なのです。彼女は、こちらが思っているのとは全く別種の体験をしている可能性があるからです。

(10)
 彼の話では、彼が私のカウンセリングを受けるということで妻と揉めた時に、この約束をしたということでした。恐らく、その場を鎮めるための、あるいは、その場しのぎのための約束だったのでしょう。もし、私が彼の立場で、尚且つ、彼女に良くなってほしいと真剣に思うなら、私はこの約束はしません。
 プログラムを必要としているのは彼女です。彼は私のカウンセリングを必要としています。明確にしたいのはこの区別であります。彼は彼の必要があって私を選んだのであり、それは彼女の必要からそうしたのではないのです。彼女は彼女の必要があって彼にプログラムに参加してほしいと願っていて、それは彼の必要ではないのです。この両者のニーズの区別であります。
 ここでは、彼女は彼の必要としているものを否認し、彼もまた自分の必要としているものに対して確固とした態度を採っていないのです。その時、この区別がお互いに曖昧になってしまっていることが窺われるのです。この約束をした時、おそらく、A氏は強い罪意識に囚われていただろうと私は推測します。罪意識のために、自分の選択を押し通せなかったといった状況があったのではないかと思います。
 こうして、彼は一度だけ「プログラム」に参加することになったのですが、そこには重要な事柄が含まれているので、次節で丁寧に見ていきたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)