<5-18>初回面接:考察(3)~罪悪感(2)

<5-18>初回面接:考察(3)~罪悪感について

 A氏は後ろめたい感じ、やましい感じを体験していたようでした。こうした感じを総称して罪悪感とここでは捉えていますが、この罪悪感は個人を心的にも圧迫し、自由を損ねるものであるということは前節で述べました。
 ここではA氏の罪悪感を私がどう理解し、評価したかという点を述べます。概ね以下の3点に集約できます。

 A氏がある行為(妻を叩いた)に対して罪悪感を持っているということは、その行為の行為者としての自分がA氏には意識されているということを示しています。その行為の主体としての自分が自覚されています。
 この意味において、A氏は自己覚知的であり、自己意識的であります。そうでなければ、つまりA氏が行為者としての自覚に欠けていれば、「あれは暴力ではない」などと、その行為をもっと否認する動きを示すでしょう。「軽く押しただけだ」とか、その行為の意味を軽減していこうとするでしょう。また、「そうするしか仕方がなかったのだ」といった、行為の自覚ではなく、行為の正当性の方をより強く訴えていたことでしょう。
 従って、彼は自分の行為に対して自覚的であり、それは彼の自己意識的なあり方を示しているように思われるということです。

 次に、彼がある行為の行為者としての自覚を有しているということは、彼の自我がその行為にまつわるさまざまな観念に対して対処できる可能性をしめしています。
 その行為の記憶に彼の自我は耐え、直視しようとする強さがあり、その行為に伴う責任を負う意識があるように思われるのです。彼の自我はそれに耐えうる強さがあるということが考えられるのです。
 もし、彼の自我がそれらに対処できないほど弱っていれば、おそらく、もっと退行を示しているでしょう。それも、精神病的な退行を示していたことだろうと思われます。
 従って、A氏は、その行為に関して、適切に対処できるだけの自我を保持しているということが考えられます。

 三つ目は、上記二つにそれぞれ関連することであります。
 A氏が罪悪感を持つことができるとすれば、それはある部分ではとても望ましいことであります。精神分析的に言えば、それは超自我形成がなされているということを表しているからです。
 超自我は、懲罰や倫理的な事柄に関係するだけでなく、自我理想の形成にも大きく関係しています。理想対象との関係を通じて、その対象が取り入れられ、内在化して、超自我の一部となり、人は自我理想を形成していくのです。
 彼が行為者として自覚的に行為できるのであれば、彼は自我理想のための行動に踏み出すことは可能であり、尚且つ、彼はそれを自覚的に行うであろうということが予測されるのです。
 自覚的な行為者とは逆の場合、つまり、無自覚的である場合、彼はただ流されるだけの生き方をするだろうと思います。周囲に同調するだけだったり、内面から押し寄せる衝動にただ突き動かされるだけになるでしょう。あるいは他責的なことだけをするようになるでしょう。そこでは、彼は自分を意識しなくても、自分の行為を自覚していなくても、やっていけるのです。
 初回面接の開始時点では、もしかすると、A氏はその両方の力に板挟みにされていたと言えるかもしれません。一方では、妻に同調しようとするのですが、他方ではそれに反発する何かを体験していたように思います。自己を麻痺させ、妻に同調するだけであれば、おそらく夫婦間の争いはなくなるでしょう。でも、その代り、彼自身の心理や生の喪失という犠牲を払うことになっていたでしょうし、もちろん彼がカウンセリングに訪れるということもなかったでしょう。
 カウンセリングに関しては、A氏と彼の妻との間では見解が異なっていました。妻が選択するところと彼が選択したところとが違うわけです。彼は彼の選択した方を受けに来ました。これは決して彼が妻に反発しているわけではないのです。彼が自己自覚的であり、自律的であるが故に、自分を押し殺してまで妻に盲従することができないのです。
 また、彼が罪悪感を経験しているとすれば、それは次の点を証明するものだと私には思われます。
 どんな事情があったにしろ、彼は妻に対して「悪い」ことをしたという自覚があるわけです。それは、その行為が「悪い」ことであるという基準が彼の中に備わっていることを意味しています。何が「悪い」ことで何が「悪くない」ことか、また、どこまでが「悪くない」ことであり、どこからが「悪い」ことであるか、など、そうした基準が彼の中に存在している可能性を示しているのです。
 その基準が正しいか間違っているかはここでは問題ではないのですが、その人の中にそういう基準があるかないかということがとても重要である場合があるのです。DVなどの問題では特にそうであります。
 A氏の中にそういう基準があるということは、A氏の自己に核となる部分がしっかり存在していることを示していると考えられるのです。「核」というのは非常に曖昧な概念でありますが、これが存在している場合、自己はその「核」を中心に凝集的であるのです。それが存在していない場合、自己は拡散的になるのです。私はそのように捉えています。

 さて、A氏の罪悪感から考察したのですが、以上をまとめておきます。
 A氏が体験している罪悪感は、次のことを証明しているようであります。
 ・A氏が、自身に対して意識的であること、自己覚知的であること。
 ・A氏の自我は罪悪感にまつわる諸問題に対処できる強さがあるということ。
 ・A氏には超自我が形成されており、それによって彼の中で「基準」が存在していること、それは彼の自己における「核」の部分が形成されているということでもあるということ。
 A氏が罪悪感を経験するということは、彼を苦しめていると同時に、彼の心理的健康度を示していると私は考えています。

 以上、この初回面接に関してはまだまだ取り上げたいテーマがあるのですが、すべてを取り上げることは、却って混乱を増すかもしれませんので、ここで一区切りをつけ、私たちは彼の2回目面接へと話を進めていくことにしましょう。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)