<5-17>初回面接:考察(2)~罪悪感(1)

<5-17>初回面接:考察(2)~罪悪感

 カウンセリングというと、問題解決のための話し合いなので、すぐにそういう話し合いが開始されるものだと信じている人たちもおられるようであります。そういう場合もありますが、現実には、そういう話し合いを始める前段階を経る必要のあるケースが多いのです。
 A氏は妻に対する「暴力」の問題で来談されましたが、このテーマに関する話し合いはほとんどなされていません。それを話し合えるようになるためには、彼の中で体験されているであろう罪悪感が軽減される必要があるのです。この初回面接では、そこに重点が置かれることになったのでした。
 一つ注意しておきたいのは、「彼の罪悪感が軽減されること」というのは、「彼に罪がない」ということを意味するわけではないという点です。罪は人の行為に対して付加されるものであって、感情とは別に取り上げられる概念であります。この区別だけはつけておきたく思います。

 罪悪感について、少しだけ述べておこうと思います。
 後ろめたさ、やましい感じ、申し訳ない気持ち、こういう感情を総称して罪悪感とここでは言っているのですが、この罪悪感というものは、それを抱える当人に対して、しばしば隠蔽的に働くことがあります。物事をきちんと見えなくさせる働きがあると、私は考えています。
 まず、罪悪感には処罰の不安とセットになっていることがあります。罪意識を持っているので、罰せられるのではないかという不安を持つことになるのです。この処罰に対する不安は当人を圧迫し、とても苦しめるものだと考えられるのです。
 この処罰不安に対して、人はいくつかの典型的な行動をするように思います。
 一つは、処罰不安対象に対する拒否・反発という態度があります。例えば、カウンセラーが処罰を施す対象であると信じられていると、その人はカウンセリングなんて受けたくないと言い張るでしょう。あるいは、カウンセリングなんて意味がないから行かないという反発的な態度をとることもあるでしょう。
 また、処罰不安対象に対して、攻撃・価値下げで応じることもあるでしょう。自分を罰するのではないかと思うカウンセラーに対して、罰せられる前にやっつけてしまえと考えたり、あのカウンセラーは無能だと価値下げして応戦したりすることもあるでしょう。
 もし、このような例であれば、彼らはカウンセラーなんて意味がないとか役に立たないと主張し、それが自分の本当の感情であるかのように体験しているかもしれません。しかし、もう少しその感情の奥を見てみると、罰せられること、非難されることなどを過度に恐れている感情が見出されるかもしれません。さらにその奥には罪悪感が潜んでいるかもしれません。でも、こうした奥の方にある感情は隠蔽されているのです。
 処罰不安に対する三つ目の対応は、相手から罰せられる前に自分を罰するというものであり、人によってはそうした自責感情を強く経験するかもしれません。
 
 また、罪悪感の対象は複数にわたることがあり得るでしょう。A氏の状況で見てみましょう。
 A氏は、手を上げてしまった妻に対して申し訳ないと体験しているかもしれません。また、自分たちの結婚を祝福し、幸福を願ってくれた人たち、家族や親族、友人たちに対して、申し訳ないと思っているかもしれません。さらに、自分は決してそういうことをしない人間だとA氏が信じていたなら、この行為は自分自身を裏切る行為となるので、自分に対しても罪悪感を経験しているかもしれません。従って、相手、他者、自分のどれに対してでも罪悪感は抱きうるのです。
 問題は、罪悪感が体験されるときは、常に同種の感情として体験されるということです。その罪悪感が、相手に対しての罪意識なのか、自分に対しての罪悪感なのか、そういう区別をつけることができないのです。体験される感情に違いを見出すことができないので、何に対しての罪悪感を経験しているかを厳密に特定できないのです。
 相手に対する罪悪感も、他者に対する罪悪感も、自分に対する罪悪感も、どれも同種の感情として体験され、それぞれを区別できないということです。これは、人は、その時々において、何に対しての罪悪感を経験しているかを明確にできないということであります。
 従って、こういうことが起きるのです。相手が許してくれたし、周囲の人も許してくれた、もはや罪を感じる必要がなくなったという人が、それでも激しい罪悪感に襲われるのです。この人は、もはや自分を許してくれている人に対して、再三、許しを請うかもしれません。彼は自分の罪悪感が何に対しての感情であるかに盲目なのです。
 また、罪悪感を抱えているA氏に、例えば「Aさんには罪がない。Aさんは悪くない」と直接的に伝えることも可能であります。でも、A氏が何に対する罪悪感で苦しんでいるのかが明確になっていなければ、これは的外れな応答になるか、さらに害のある応答になる可能性もあるのです。

 もっとも問題であると私が考えるのは、罪悪感は本当の謝罪や懺悔、反省につながらないという点であります。言い換えると、その人が本当に何をすべきかを罪悪感は覆い隠してしまうのです。
 罪悪感に襲われている時、その人は「自分に非があったかなかったか」「罪があるのかないのか」といった二分法に引き裂かれていることが多いと私は考えています。処罰不安が強い場合でも、「自分が罰せられるか否か」という二項しか存在していなかったりするように思います。
 そうして、この人にとっては、自分が悪いのか悪くないのかということを、より正確に言えば、自分は悪くないということを証明することだけが関心事になってしまうのです。その証明のためだけにカウンセリングを必要としているような人もおられるのです。当然、これは何一つ当人を動かすことがないのです。そういう証明はカウンセラーの仕事の範囲を超えているばかりでなく、不公平な裁判のようなものなので、それが証明されても、単に当人の自己満足に終わるだけであり、次の「問題状況」の火種となるだけなのです。
 罪悪感からなされる行為や反省は、単なる後悔であり、罪滅ぼしであり、起きたことに対してそれを消去しようという努力なのです。「悪いことをした、あんなことをしなければよかったのに、ああいうことが起こらなければよかったのに」という作業は、すべて後悔であり、過去の消去の目論見でしかないのです。
 従って、罪悪感というのは、極度にその人を自己集中的にさせるのです。全体のこと、相手のことなどは周辺に追いやられ、自分のある行為に、その行為一点だけに全意識が投入されてしまうことになるのです。だから、周囲の人がこういう人を「自己中心的だ」と評価していることも少なくないと私は思うのですが、それはあながち誤ってもいないと思っています。しかし、その人が自己中心的であるというよりも、罪悪感が過度にその人に意識を自身に集中させてしまうためであると私は考えています。

 さて、罪悪感というのは、それ自体、膨大なテーマであり、とてもここで素描しきれるものではありません。取りあえず、罪悪感というものは、とても曖昧な感情であり、それは個人を一か所に拘泥させ、自己に意識を集中させてしまい、当人が本当にすべきことを隠してしまうように作用するということだけを押さえておきます。
 従って、A氏が強い罪悪感を抱えたままカウンセリングを重ねていったとすれば、彼は自分を隠し続けるか、偽りのものを提示し続けることになると思われるのです。そのカウンセリングは百害あって一利なしというものになるでしょう。そのため、彼の罪悪感を軽減することが最優先される課題であったのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)