<5-14>初回面接:解説(11)

<5-14>初回面接:解説(11)

(60)
 私はA氏の発言から脱落している部分を私の推測で補って述べてみました(59)。続くA氏の反応に注目しましょう。
 A氏は、嬉しそうな表情で「本当に、そうなんですよ」と答えます。彼は理解してもらえていると体験したでしょう。また、彼は私の「解釈」に対して抵抗を示しませんでした。
 しかし、A氏は微妙に焦点を移し替えています。つまり、「自分が混乱する」という話にではなく、「事態が前進しない」という話になっています。A氏は、他の発言でも認められることでしたが、このように「自己関与度」の低い形式で語られるのです。

(61)
 A氏が「自己関与度」の低い表現をされたので、私は再びA氏に焦点を当てます。やはり、私が推測したこと、「解釈」を投与している部分です。
 物事が宙ぶらりんになったり、前に進まない感じがして、そう感じていることにも罪悪感を覚えるのではないかと、私は述べています。

(62)
 彼はそれを「思いますね」と言って認めます。しかし、これは次のことを意味しているように思われます。問題となる事態を生み出すのは、彼だけではなく、妻もそれに関与しているはずなのに、その責任はすべて自分にあるのだとA氏が考えているということであります。
 続くA氏の発言。「妻の要求が的外れだと思うこともある」。ここは再び妻との差異を見ている部分であります。言い換えると、「私だけが悪いとみなされるのはおかしい」と、彼は妻に異議申し立てをしたくなっているのだと思います。しかし、この異議申し立ては、次の発言によってはっきりしなくなります。
 彼は、続けて、「そう思うと自分が妻に向き合っていない気がしてくる」と、再び罪悪感を述べ始めます。

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 私は、ここで、彼の使用した言葉、「向き合う」という言葉に引っかかってしまったのでした。ここでのこの応答が望ましいものだったとは、私には思えません。むしろ、「あなただけが悪いって言われているような気がしてくるんですね」と伝える方が良かったと思う。
 しかし、「向き合う」っていう言葉にも少し注目しておきましょう。この「向き合う―向き合っていない」というのは、DV問題なんかでは、実に多義的に使用される言葉で、ありとあらゆる言動がこの言葉に還元されたりするのです。
 余談と愚痴になることを覚悟の上で述べるのですが、私は多くのDV「加害者」とされる夫たちからこの言葉を聞きました。この言葉を発するのは、「被害者」立場の妻たちであることが多いのです。
 彼が面と向き合って妻に何かを言うと「向き合っていない」と言われ、何も言わなければ「向き合っていない」と言われ、早すぎれば「向き合っていない」と言われ、時間がかかれば「向き合っていない」と言われ、考えを述べれば「向き合っていない」と言われ、考える時間をくれと言えば「向き合っていない」と言われ、考えを言わないでいると「向き合っていない」と言われ、笑顔でいると「向き合っていない」と言われ、しかめ面をしていると「向き合っていない」と言われるのです。彼が普通に食事をしているだけでも「向き合っていない」と言われ、パジャマに着替えているだけで「向き合っていない」と言われ、さまざまな場面でこの言葉が発せられるのです。私はウンザリするほどこの言葉を耳にしました。
 要するに、「私はあなたを気に入らない」が「あなたは私に向き合っていない」に容易に変換されるわけです。主体と被主体とが入れ替わるのです。そして、自分の不機嫌が、相手の非に還元されるのです。ある意味で、非常に便利な言葉なのです。
 私はそのように思いますので、「向き合う―向き合っていない」といった言葉は我々の辞書から抹消すべきだとさえ考えるようになりました。まあ、余談はこれくらいにしておきましょう。
 A氏は、「それでは向き合っている気がしない」と述べています。私はこれが彼の考えであるのか、妻の認識であるのかを区別したいと思いました。それで、「向き合う」がどういうことであるかを彼に問うのです。
 これが彼自身の見解であるなら、「向き合う」が何であるかについて、彼なりの定義を下せるでしょう。しかし、それが彼自身のものではなく、単に妻の見解に彼が順応しようとしているだけであれば、彼は「向き合う」の定義を下せないでしょうし、曖昧に述べるか、妻の定義を述べることになるでしょう。
 さて、A氏はどう答えているでしょうか。

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 案の定、「きちんと受け止めていないとか、面と面を合わせていないとか」と、A氏は曖昧にしか答えられませんでした。私には「向き合う」ということが、彼の価値体系の中にある観念ではなく、妻の方に属している観念であるように思われたのでした。

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 私の応答でありますが、幾分、皮肉がこもっています。彼のイメージする「向き合う」であれば、単に相手とその場に留まるだけでも向き合ったことになるのかと反論します。
 この反論は、間接的には妻の観念に対する反論であるわけです。そして、おそらく、彼の観念とはかなり一致する反論だと思います。もし、この反論が、彼の見解と一致していれば、彼は自分に味方ができたように体験するでしょうし、それによって安全感が増すでしょう。もし、安全感が増せば、彼は自分の体験をより抵抗なく語るでしょう。彼はどう応答しているでしょうか。

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 A氏は、笑って、そうはならないと答えます。その場に留まるだけでも辛い時があり、妻から逃げ出したいと思う時があると、話を続けます。
 ここには彼の「自己関与度」が認められます。彼自身の体験、その場面での感情体験を述べており、状況や妻のことを述べているのではないことが分かります。

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 私は逃げたくなる気持ちを取り上げています。どれだけ好きな相手でも、相手から離れたいと思う瞬間があるものです。こういう一般化が望ましいかどうかはともかくとして、「逃げたいと思う気持ち」は罪ではないことを押さえておこうとしたのでした。つまり、その気持ちを持つこと自体は、罪ではないし、人間なら持つことがあり得る気持ちであるということを伝えているわけです。

(68)
 彼は、「そう思う」と認めると、すぐ後に、「妻はそれを認めない」という話に持って行っています。彼は自己弁護する気持ちを表明すると、すぐに妻を連想してしまうのかもしれません。いずれにしても、それは罪ではないということを押さえた後に、彼にそれを受け入れることへの抵抗感が生まれたように思われます。少なくともこの段階では、彼は全面的には自分の無実の部分を信じられないでいるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)