<5-11>初回面接:解説(8)

<5-11>初回面接:解説(8)

(43)
 A氏から了承を得たので、私は疑問に思っていたことを述べます。これは最初の段階で私の中に生まれた疑問だったのですが、ここでようやく取り上げることができたのでした。
 この疑問は、電話で受けた時のA氏の印象と現実に会ってからのA氏の印象とに違いがあるということ、この違いを生み出すような出来事があったのではないかというものでした。
 少し余談になりますが、どうして予約は電話でなければならないのかの理由がこういうところにも求められるのです。最初に受ける印象ということがとても役に立つのです。ネットやメール、FAXなどで予約を受け付けると、こうした印象形成がなされないのです。
 最初の印象と、実際にお会いした時の印象とが一致することもあります。そういう場合では問題にならないことではありましょう。でも、A氏の場合のように、これが一致しない時に、これがとても重要な情報として役立つのです。
 これが一致しないということは、要するに、予約時と面接時とで、その人の心的状態が異なっていることを表していると私は考えているわけです。そして、その差異をもたらした何らかの出来事をその人が経験している可能性があると、そう考えられるわけです。
 同じように、私の心的状態が異なっている可能性もあるのです。この場合であっても、それは私には重要な情報になるのです。それは私にクライアントをもっと正しく見ることを教えてくれるのです。
 従って、印象が一致しない場合には、私は両方の可能性を考察することにします。クライアント側に何かが生じて、クライアントの方に変化が起きたのか、あるいは私の方に変化が起きたのかの両方を考えてみることにするのです。その前に、まず、クライアント側のことから聞いてみるのです。クライアントの方で何もないというのであれば、この変化は私の方に起きた可能性が強まるからです。

(44)
 A氏は驚きます。そして、妻との間に生じた一悶着を話します。
 この悶着とは、A氏がどこを受けるかについての妻との意見の相違に始まり、A氏が私に会うことを妻が禁じるという形に発展しています。そして、今後のことを先取りして述べるのですが、この悶着はまだ決着がついておらず、A氏との2回目の面接まで持ち越されることになるのです。
 妻は「更生プログラム」に参加することをA氏に求めています。これは妻の認識、何が問題であるかということの認識を示しています。この「プログラム」に関しては、2回目で話し合われることになるので、そこで再び考察したいと思います。
 さて、DV場面における夫婦関係の在り様をクライアント自らが言語化して述べることは難しいのです。しかしながら、DV場面以外の場面においても、その夫婦の在り方、関係の様式が象徴的に現れるものなのです。この悶着はA氏たち夫婦のパターンをよく示しているように思われました。
 あることがA氏と妻との間で「問題」となる。この「問題」に対して、両者の認識は一致しない。A氏は自分にとって望ましいと思うものを選択する。妻はそれに賛成しない。妻は妻にとって望ましいと思うものをA氏に要望する。A氏がそれに反対である場合、A氏はそれを押し切る。妻はA氏のその動きを認めず、妻にとって望ましい方のものにA氏を引き戻そうとする。こうした流れは、A氏たち夫婦にとって一つの構造、パターンを形成しており、様々な場面でこの流れが繰り返されている可能性があると考えられるのです。

 ここで初めて妻に関する事柄が述べられたのでした。それまでは「妻がひどく暴れる」くらいにしか妻のことをA氏は語っていませんでした。ここで、もう少し具体的に妻という人がどういうことをしているかが語られたのでした。
 この妻にとって、A氏は「加害者」でなければならないのだと思います。それによって彼女は「被害者」というアイデンティティを獲得できるからです。
 誤解のないように申し上げるのですが、彼女のような人は「被害者」というアイデンティティを求めているのではないのです。何もないから、何らかのものを求めるのです。
 私たちはさまざまな形で「私」が何であるかを定義します。「私は会社員である」というのであれば、それは一つのアイデンティティを形成していることになります。そして、「会社員」というアイデンティティは、その人を限定する働きをするのです。その枠の中にその人が凝集されるのです。
 もし「何者」でもないという人がいるとすれば、その人は何にも限定されない代わりに、「私」という観念が拡散していくことでしょう。これは非常に苦しい経験になるのです。そのために何らかの形で「私は○○だ」と言えるものを求めるようになるわけです。
 それはおかしいと思われる方もいらっしゃるでしょう。彼女は「A氏の妻」というアイデンティティを有しているはずではないかと反論されるでしょう。それは正しいと思います。ただ、それは夫婦が夫婦として成立している限りにおいて有効な観念であると私は考えています。そうでなければ、これはアイデンティティとして経験されないばかりか、積極的に放棄されるものになるでしょう。そして、それに代わるアイデンティティが見出されないとすれば、その人は本当に苦しい立場に置かれることになると私は思います。「何者」とも限定されない自分でいるということは、空虚な自分を体験することにつながるからであります。
 後々、明確になってきますが、A氏の妻にはこういう傾向がすでに生じていることが考えられるのでした。

 もう一点、A氏の語ったエピソードに注目すべき事柄があります。妻はA氏にカウンセリングや治療を受けるように熱望してきました。それに関しては妻の方が積極的だったようです。しかし、A氏は一年近くそれを拒んできました。ずっと拒み続けてきたA氏は、今、こうしてカウンセリングを受けに来ているのです。そこには何らかの心境の変化がA氏に生じたのではないかと思われるのです。別の言葉で言い換えれば、そこでA氏に一つのプロセスが進展したということであります。何かがA氏の中で変わったのだと思われるのです。
 そこに私はたいへん興味を覚えたのでしたが、今はそれに触れないようにしようと思いました。それには三つほどの理由があります。
理由の一つは、それが時期尚早であるように思われたからでした。心境の変化が生じたとすれば、そこには彼にとって影響の大きかった出来事、事件があった可能性があります。最初の段階でそこに触れることが得策であるかどうかは、クライアントによって異なるのですが、A氏の場合、私は少し待つことにしました。A氏の罪悪感を高めてしまう可能性もあったからです。
 もう一つの理由は、仮にそこを取り上げるにしても、残された時間が十分ではなさそうに思われたからでした。
 三つ目の理由は、次の(45)の問いの方がここでは重要であるからでした。

(45)
 A氏は、妻の反対を押し切って、私の面接を受けています。そこで、私の何が良さそうに思ったのかをA氏に尋ねています。
 こういう質問はとても大事だと私は考えています。と言うのは、相手が私に好感情を抱いてくれているとすれば、それを尋ねられることによって、その人は改めて私に対する好感情を意識するからであります。それと同時に、相手が私の何に好感情を持ってくれているのかを私も知ることができ、それが相手に関して多くのことを私に教えてくれるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)