<2-2C>苦悩と絶望

<2-2C>苦悩と絶望

(調和と対立)
 前項にて、人の生は主体(私)、他者、世界(環境、状況)の三要素から構成され、それぞれの要素と関係していく過程が人生であるという観点を確認しました。理想的な人生とは、それぞれの要素と調和的で、友好的・平和的な関係を築き、維持していくことであると私は思います。
 しかし、それはあくまでも理想的な生であります。なかなかそれを実現することは難しいことであります。
 確かに、私は私自身と折り合っていくことはできるし、他者と助け合うこともできるでしょう。世界もまた捨てたものではないと思えることもあるでしょう。私は各々に対してできるだけ協調的であろうと努めることは可能であります。
 実際には、私は私自身に裏切られるといった体験をすることもあります。フロイトの精神分析が主張したことの一つはそれでありました。人間は自分が信じている以上に自分を統制していないのであります。意識されていないもの、無意識にあるものが、主人を裏切るといったことが生じるのであります。
 私は自分が自分の思っているような人間ではなかったことを痛感し、打ちのめされる思いをすることもあるでしょう。そういう時は自分をたまらなく嫌悪したくなることでしょう。私は私自身に嫌悪し、自分自身と敵対的な関係を築いてしまうかもしれません。
 他者との関係においても、私の生を妨害するような形で「問題」が発生することもあるでしょう。私の希望するところのものが相手から拒否されることもあるでしょうし、お互いの要求が相容れなくて衝突することもあるでしょう。相手から虐げられたように感じて、相手を恨みたくなることもあるでしょうし、現にそうして怨恨の虜になっている人もあるでしょう。人から信用されなかったり、裏切られたりすることもあるでしょう。愛してほしいと思う人から愛されないといった経験もするかもしれません。
 世界もまた、私の要求を完全に満たしてくれる場ではないかもしれません。私が望んでも、社会がそれに反することもあるでしょうし、もし世界が戦争すれば、好むと好まざるとにかかわらず、私はその戦争に巻き込まれ、被害を受けることでしょう。長生きしたいとどれだけ欲していても、災害などで命を落とすこともあるでしょう。世界は私の生が展開する場であると同時に、その生を阻害する場になることもあるでしょう。その時代、その世界の影響から私たちは完全に守られているわけではないので、私たちは世界に絶望してしまうことだってあるでしょう。

(人間は苦悩と絶望を経験せざるを得ない)
 私は私自身と、他者と、世界との間で、友好的な関係を築くこともできれば、対立してしまうこともあるわけなのですが、こうした対立は常に生じ得るものであります。私が望まなくてもそれが生じることもあり、その都度、私は苦悩し、傷つき、絶望を経験してしまうかもしれません。
 従って、私たちは生きている限り、自分自身、他者、世界に失望したり、裏切られたり、挫折したりして、苦しい経験をしてしまう存在なのであります。私たちはそれを避けることはできないし、生きている限り、私たちはそういう経験に晒される可能性を持っているのであります。それが人間の在り方であると私は思うのです。
 私たちは誰もが不幸な経験をしてしまうのであります。そうして私自身とも、他者とも、世界とも、良好な関係を築けず、それぞれとの関係を損ねてしまうのであります。

(希望の哲学)
 さて、ここまでお読みになられたあなたは、私がひどく悲観的な思想の持主であるように思われたかもしれません。読んできて、何かと不快な思いをされているかもしれません。私は決して悲観的な思想を展開するつもりではありませんので、ここで、少し脱線して、誤解を解いておこうと思います。
 確かに、自分自身のことなのに、自分でも上手くいかないという場面があります。私は私自身に不調和な何かを経験していたりします。私は私に絶望することもあるでしょう。しかし、いつかこの不調和が解消されて、自分自身と上手く付き合っていくことができると信じることも私にはできるのです。これは一つの希望ということになります。
 他者との関係においても、相手から誤解されることもあれば、ケンカしてしまうこともあります。場合によっては私は大切な他者を失ったという思いから絶望に陥るかもしれません。しかし、それでも、いつか相手に伝わると信じること、いつか和解できる日がくると信じることが私にはでき、且つ、そのために努力することもできるのです。これも一つの希望なのであります。
 世界は私に門戸を閉ざしているように経験されることもあるでしょう。世界とは厳しいところで、とても生きていけないと絶望感に襲われることもあるでしょう。しかし、それでも、この世界のどこかに自分を開花させる場所があると信じることもできれば、いつか自分が生きていける場が見つかるかもしれないと信じることもできるでしょう。これもまた一つの希望なのであります。
 多くの実存哲学者と同じように、私たちは絶望から生を始めるのだと私も考えておりますが、絶望のあるところに希望が生まれるものではないでしょうか。本項の一部分だけを読めば、私がやたらと絶望的な状況を強調しているように見えてしまうかもしれないのですが、決して絶望を強調する意図はなく、そこから生まれる希望を取り上げていきたいのであります。
 私が展開したいのは希望の哲学であります。ただ、非常に逆説的なのでありますが、それを記述するには絶望から始めなければならないのであります。絶望を記述しなければ希望を述べることができないのであります。

(可能性)
 ここまでのことを、書き漏らした点や後に述べる観点も含めて、まとめておきましょう。
 まず、私の生とは、私、他者、世界から構成されています。私が生において経験することはすべてこれらの構成要素との関係として捉えることができます。従って、人生とは、これらの三要素それぞれとの関係であり、その関係の過程であると理解することができるわけであります。
 この三者と良好な関係を形成し、それをそのまま維持できれば望ましいことなのですが、それは一つの理想的な生き方であって、現実にはそう上手くはいかないのです。他者も世界も、時には自分自身でさえも、完全に自分の思い通りにはできないので、私たちはそれらから裏切られるといった経験をしてしまうのです。
 この三者との関係において、私たちは傷ついたり、挫折したり、絶望したりとあらゆる不幸な感情経験をしてしまうのであります。そして、こういう経験は生きている限り完全に回避することはできないのです。人はどうしても苦悩し、不幸や絶望を経験せざるを得ないのであります。
 人間は絶望してしまう存在であります。でも、絶望に留まり続ける存在でもないのです。絶望の中から希望が生まれたり、袋小路のような状況から突破口を見いだしたりすることも、怨恨を愛情に、毒を薬に、激情をエネルギーへと発展させていくことも人間にはできるのであります。どの人にもその可能性があると私は信じております。そして、そのためにお互いに助け合うことも人間には可能であると私は信じております。私たちはより良い生への可能性を常に有していると私は信じているのであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年4月5日公開