<2-2B>生の構成要素

<2-2B>生の構成要素

 前項では、人の人生とはその人の出生から死までを指すということを確認しました。それ以前の生(例えば胎児期や前世)やそれ以後の生(例えば死後の世界、輪廻転生など)はこれに含めないし、取り扱わないということも確認しました。
 本項ではもう少し違った観点から生を見ていくことにします。

(生の構成要素―私)
 何よりも私の存在が私の生の基盤であります。私が存在しなければ私の人生というものは開始されないのです。従って、ある個人が生を送る時には、その個人が現実存在することが絶対に欠かせないわけであります。
 その生を送る主体の存在を抜きにしては、その人の生は存在し得ないのであります。

(生の構成要素―他者)
 しかし、いくら私が存在しても、私だけで生を営むことはできません。私たちはどの人も一人で生きているわけではありません。さまざまな人たちとの関係の中で生きています。
 およそ誕生から死までの間に、一人の人は多数の他者と関わるものであります。生まれた瞬間から人は他者との関りの中に投げ込まれ、死を迎える瞬間でさえ他者に看取られるのであります。従って、私の生においては、私の存在はもちろんのこと、他者の存在も不可欠であります。
 この「他者」の中にはさまざまな人が含まれます。恋人や配偶者、家族や親族を始め、友人や知人、同僚などから、近所の人たち、店員さんなど、私が出会う人すべてが含まれることになります。要するに、私にとって重要な人からさほど重要ではないという人まですべてが含まれるということであります。道を訊いてきた通りすがりの人でさえ、私の人生に関与した他者であるわけです。電話で話しただけの営業マンでさえ、私が人生において関係した他者になるのであります。
 私の生はこうした他者の存在によって彩られ、展開されていくものであります。

(生の構成要素―世界)
 さらに、人は真空管の中で生きるわけではありません。私の生きる場がなくてはいけないのです。生を営み、生が展開する世界の存在も不可欠なのであります。私の生は、それを送る環境世界を必要とするのであります。
 この環境世界は、家庭から学校・職場などの個人的な環境から、さらには市区町村の地域社会までの広がりがあり、国レベルでの世界まで含むものであります。さらに、その人の置かれている状況もすべて含んでいます。
 
(各要素との関わり)
 ひどく単純化した考えではありますが、私の生は私と他者と世界の三者から成り立っていると言えるのです。生を送る主体、その主体が出会う他者たち、その主体が置かれる環境世界、それが生を構成していると考えることができるわけであります。
 そして、私たちはそれぞれの構成要素と関係を築くことになります。私は私自身と関わることになり、且つ、他者とも関わり合うことになり、世界とも関係を持つことになります。三者それぞれとの関係を私は築き、その関係の中で私の生が展開していくのであります。
 この関係は現実的なものから心的なものまで含むものであると私は考えています。
 私がある人のことを考えているとしましょう。その人は今現在において、私の目の前にいません。それでもその人のことに思いを馳せている時、私はその人と関係を築いているのであります。従って、人は故人とも関係を築くことができるのであります。歴史上の人物とでさえ心的には関係を築くことが可能であります。
 世界もまた同様であります。例えば、私はブラジルに行ったことはありません。それは私の生にとっては無関係な外国であります。しかし、私がブラジルという国に興味を持ち、その国についてあれこれ勉強している時、心的には私はブラジルと関係を築いているのであります。現実にその国、その環境世界に居なくても、それと関係を築くこともできるわけであります。
 ここまでのことをまとめて、一つ結論付けるとすれば、人の人生とは生の三構成要素それぞれと関係する過程であるということになります。その関係は現実のものであっても心的なものであっても構わないということであります。

(調和的関係)
 人生とは、私自身、他者、世界との関係であります。その関係は現実的な関係から心的な関係までをも等しく含みます。私たちはなんらかの形でそれぞれに関わることになり、その関わっていく過程がその人の生であります。私はそのように考えているわけであります。
 それが現実的な関係でも心的な関係でも構わないのですが、もう一つ付け加えておくべきことは、どういう種類、あるいはどういう性質の関係を築いているかという観点であります。
 後に詳しく取り上げる予定をしておりますが、この三者それぞれと調和のとれた関係、平和的な関係を築けるということが生の理想の一つであると私は考えています。私は私自身と調和的であり、他者とも調和的な関係を築き、世界とも調和的にかかわるという生が理想的であると考えています。不調和や諍いが生じることがあっても、妥協したり和解したりして、再び調和的で平和的な間柄になれる方が幸せであると、そのように考えております。
 私の考えでは、より良い人生とはそれぞれとの関係が調和的であるということを意味するのであります。それぞれと調和的で、良好な関係を築くことができているということであります。
 この観点をなぜ強調するかと言いますと、問題を把握する観点に齟齬が生まれてしまうからであります。
 例えば貧乏な人がいるとしましょう。仕事も上手くいかず、自分には何の能力もないと信じている人がいるとしましょう。この人を見て、この人は貧困で苦しんでいると考えてしまう人がおられるのです。いささか失言になりますが、政治家はそういう考え方をしてしまう人が多いと私は考えています。また、そのように考えてしまう援助者は、この人に安易にお金を貸したりしてしまうのです。そうして、この人に対して物質的な援助を優先して施してしまうことになるのです。あるいは物質的援助さえしてあげればそれで良いと考えてしまうことだってあるかもしれません。
 しかし、私の見解では、この人が苦しんでいるのは貧困ではないのであります。自分自身や世界との関係が拙くなっていることが苦しいのであると私は考えるわけであります。この人は自分自身と敵対関係を築き、世界とは迫害的な関係を築いているのかもしれません。こういう関係が苦しいということなのであります。貧困は、その関係悪化に対しては副次的な意味しか有さないと思うのであります。
 同じように、「引きこもり」の人は「引きこもり」で苦しんでいるとは限らないわけであります。こういう人は無理強いしてでも外に出せばいいと考える人もあるのですが、そこが本当の問題とは限らないのであります。他者や世界といかなる関係をも築くことができないということが本当に苦しい部分なのではないかと私は考えるのです。
「うつ病」と診断されたような人は、「うつ」で苦しんでいるのではないのかもしれないのです。自分自身、他者、世界との関係の喪失が苦しいのかもしれません。
 生の構成要素と人はそれぞれに関係を築いているのですが、この関係が悪化したり、喪失したりすると、それは生の停滞をもたらすと私は考えています。援助とは、それらとの関係を回復していくことを手助けしていくことであると私は考えているのですが、それはまた後に取り上げることになるでしょう。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年4月5日公開