<2-2A>生の範囲

<2-2A>生の範囲

(人生に関する見解を持つこと)
 これから人の人生ということに関して、私が前提として持っている見解を綴ることにします。
 ここで展開することは、特に目新しいことを言うつもりはなく、読む人にとっては当たり前のことに思えることでしょう。ありきたりな見解であれ、私がこういう見解を有しているということを明記するのが目的であるので、何か独自なものを綴ろうという意志はありませんし、そういう期待を持って読まれると失望するのではないかと思います。
 ところで、たとえありききたりな見解であったとしても、人の人生というものをどのようなものとして捉えているか、理解しているか、考えているかといったことは重要なことであると私は考えています。特に援助職に就いているような人は、それを考えておかなければならないと私は考えています。医療であれ、看護であれ、介護であれ、福祉であれ、人の人生に関する認識がなければそういう仕事は務まらないと私は思うのです。
 もちろん、こういうテーマには正答というものがありません。従って、少なくとも自分はこう考えているとか、こういう見解を支持しているとか、こういう認識を持っているといったことしか言えないわけでありますが、それらを意識化できている必要があると私は考えております。
 私は私の有する見解なり思考なりを綴ります。まずは基本的な事柄から入りたいと思います。本項では人生とはどこからどこまでの範囲を指すかという点だけを押さえておこうと思います。

(実在すること)
 一応、私が生まれた時から私の生が始まると仮定しておきます。誕生をもって人は生を開始するとしておきましょう。
 「一応」と付したのは、人には胎生期の段階もあるからです。また、人によっては前世を信じている人もおられるからであります。私は個人的には胎児期も前世も否定するものではありませんが、私の存在は現実に私がこの世に生まれ出た時から始まると考えています。
 胎児期にすでに私の生命が始まっていたとしても、それはまだ現実存在の私になっておらず、母とつながっている存在として考えるとすれば、それはまだ一個の独立した存在になっていない私であると見ることができます。それは現実存在している私の生とは言えないように私には思えるのであります。
 前世に関しても同じことが言えそうです。私には前世の記憶がないけれど、それはやはり他人の生であり、現在において現実存在している私の生ではないのです。仮に前世からのものを何か引きずっているという考えを受け入れるとしても、それを達成するのは前世で私であった誰かではなく、現在において現実存在している私が成し遂げなければならないことであると思います。従って、前世があろうとなかろうと、私の生は私の誕生ともに始まり、私が背負っているものは、誕生から死までの間に抱えていくものであり、処理していくものであると考えています。
 私の生命の誕生と私の現実存在との間には時間差があるということは認めるのですが、それでも、やはり私の生は私の誕生と同時に、つまり私がこの世に現実存在した時から始まるものと考えたいと思います。

(生の終わり)
 私の人生は私の出生とともに始まります。そして、私の人生は私の死でもって幕を閉じます。私はそう理解することにしています。
 当然、異なった見解を支持する人たちもおられます。死後の生、霊界の生を信じている人もありますし、輪廻転生を経験したという人もおられるのは知っております。しかし、私は人生をそこまで広げるつもりはないのです。
 私の人生は私の死でもって、つまり、私が現実存在しなくなると同時に、終わりを告げるのであります。

(現実存在している期間)
 従って、人の人生、一生とは、その人が現実存在している期間ということになります。現実存在している間にその人が経験することがその人の人生であるという見解を私は採用しています。
 現実存在している期間とは、「私」が連続性を有している期間であります。私は「私」という一貫した感覚を有しています。過去から現在までそれは連続しているように体験されています。そして、今後とも、私が現実存在し続ける限り、その感覚が継続するでしょう。赤ん坊のころの記憶が私になくても、その当時の写真を見せられると、私は「私」の連続線上にそれを位置付けることが可能であります。
 前世というのは、その記憶を持っているという人と数人お会いしたことがあるのですが、彼らはただその記憶を有しているのです。それが別人の生であることを認識されているのです。それは前の人の生として認識されているので、自分の生という感じにはならないようであり、自己の生活史の線上に位置づけることもないのであります。つまり、前世の記憶があっても、それは非連続的に認識されているようであります。
 死後の生に関しても、そこでは私の身体がなくなるわけであるので、今現在の私が経験している「私」と同じ感覚が持てるのかどうか疑問に思うのであります。つまり、連続性がそこでも維持されるのかどうか疑問であるわけです。これに関しては経験したという人の話を直接聞いたことがないので何とも分からないのでありますが、私はそのような疑問を抱いております。
 前世や死後の生があるとしても、それは私の人生の範疇からはみ出ているものであると私は捉えています。ある人が前世の記憶に悩まされているとしても、その人が苦しんでいるのは現在のその人であります。死後の幸福を求める人がいるとしても、その人が成し遂げなければならないことは現世にあるのです。現実存在している人生において、私たちはすべてのことに取り組んでいくことになるのです。
 前世や来世のことは分からない上に、現実存在している私たちが取り扱うことのできる限界を超えていると私は考えていますので、それらに関しては考慮しないことにしています。機会があれば、もう少しこの辺りのことを詳しく述べてみたい気持ちもあるのですが、私たちは論述を先に進めていくことにします。

 本項では、人生とはどこからどこまでの範囲であるかを認識していきました。人によって考え方は違うでしょうけれど、私は前提として、出生から死までを人生とみなし、その間のことだけを扱うという姿勢を採っています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



2019年4月3日公開