<16-4-6>「発作」の過程(5)

<16-4-6>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~「発作」の過程(5)

(妻は夫の何を修正しているのか)
 妻が要求を出し、夫がそれに反応します。その反応は、夫にとっては自然な人格的な反応であったとしても、妻にとっては受け入れられないものであったりします。夫は反応に「失敗」してしまうわけです。そうして妻は夫にやり直させたり、夫の反応を修正させたりします。一体、妻は夫の何を修正していることになるのでしょうか。
 前項で、夫のその反応は夫にとっては自然なものであり、彼らしい反応であるから、彼の人格的な反応であると述べました。その観点に立てば妻は夫の人格的な反応を修正しようとしているということになります。
 夫の人格的な反応を修正するということは、言い換えれば夫を「非人格化」するということであると私には思われるのです。つまり、夫は夫らしい反応を禁じられるということであり、その時、夫は一個の人格として見られていないことになると思われるので、これは夫の非人格化であるように思われるのです。
 夫は一個の人格を持った存在ではなく、妻の延長上にある存在にならなければならなくなるのです。と言うのは、夫がどういう反応をすべきなのかは妻が知っているということになるからであります。
 妻は自分の望む反応を夫に求めるわけです。その時、自分が望んでいるものと寸分違わぬものが与えられないといけないのです。そこに少しでも違うものが入っていると彼女たちには耐えられないように私には思われるのです。
 少々極端な表現をすれば、妻にとって、夫が妻の思い描いている通りの人間と少しでも異なっていてはいけないということなのです。夫は妻の望んでいる通りの人間でなければならないのですが、それは夫の個性とか人格とかが一切度外視されていることになるわけです。そのため、夫が非人格化されていると私はみなしているわけです。
 妻は自分の望んでいる反応を夫に期待しています。それと違った反応が夫からもたらされると彼女たちはたまらなく不安になるのだと思います。この不安を解消するためには、夫が夫らしい反応をすることを許してはいけなくなるのです。それを許すということはさらなる不安が襲ってくるからなのでしょう。
 結果的に、妻の望んでいるものと一致するまで夫の反応は繰り返し修正を受けることになります。この一致を妻たちは「納得した」という言葉で表現するのだと私は思います。
 仮に、そこで一致したとして、それによって妻たちの発作が一旦は落ち着いたとしても、やがて再び「発作」に見舞われるのです。私が思うに、この一致がつねに部分的であるからであり、尚且つ、その経験は妻の中で蓄積されていかないためであると私は考えています。

(妻は夫を諦めない)
 さて、DV問題なんかでも妻にこうした発作が見られたケースを私はいくつも経験しています。ここで特徴的なのは、DV問題とは異なり、⑤の段階のものがあるということです。彼女たちは④で終わることなく、⑤まで発展させているのです。そればかりか、自分の望んでいるものが得られるまで夫に繰り返し修正させたりします。
 ⑤に発展せず、④で終わる場合、妻は夫に見切りをつけるのです。望んでいるのと異なた反応が来た瞬間に夫に失望し、夫に見切りをつけてしまうのです。この妻たちはもうそれ以上夫に関わろうとはしないのです。
 Q夫人もR夫人も、その他ここで取り上げている妻たちは、仮に④で失望しても、⑤につなげていくことで夫と関わり続けています。言い換えれば、彼女たちは夫を諦めていないし、見切りをつけたりする気はないのです。これは夫婦として素晴らしいことであるかのように見えるかもしれませんが、問題の一つの表れである可能性もあります。妻たちは何を諦めることができないのでしょうか。このこともまた後々見ていくことになるでしょう。

(対象の非人格化)
 ところで、妻が夫の反応を修正させるとき、それは夫を非人格化する行為であると述べました。非人格化などと、言葉にすると少々厳しい響きもありますが、私たちはこういう関係性を誰もが経験しているものです。
 この関係性の原点は乳幼児と母親にあります。赤ちゃんがワッと泣きます。母親は駆け寄り赤ん坊の世話をします。この時、乳児は自分が望んでいる通りのことを母親がしてくれないと癇癪を起したりするのです。少しでもそれと違っていたらいけないのです。
 この時の乳児は母親を一個の人格をもった存在とは見ていないのです。自分の望んでいる通りのことをしてくれて、自分を快適にしてくれる存在であり、「道具的」存在のように母親を体験しているように思われるのです。
 「発作」時の妻たちがしているような経験を私たちの誰もが経験しているのです。ただ、私たちはもうそれを覚えていないのです。夫たちが妻のやっていることが理解できないのも無理ないことであり、また、妻たちも自分のやっていることが理解できないと感じていたとしても、それもまた無理ないことだと思います。
 さて、話を幼児期に広げず、次の仮説だけ押さえておきましょう。妻が「発作」を起こしている時、妻は乳幼児期の段階に退行しているのかもしれない、そのような仮説を立ててみましょう。

(妻の衝撃は理解困難なものである)
 あくまでも仮説であり、それを唯一の正解などというようには解釈しないでいただきたいのでありますが、私たちは「発作」時には妻が幼児期の段階まで退行していると考えてきました。この人生最早期まで急激に退行してしまうということは、それ相当のことが妻に起きていると仮定しなければならなくなります。
 もし、夫の立場の人がこれを読んでいるとすれば、そこをご理解していただきたく思います。妻の中では尋常ではない衝撃が体験されているのだということであります。そして、それは常識的な立場からは理解困難なものであるという観点を有していただければと思います。
 Q氏やR氏は常識的な見解で妻を見るのです。もちろん、それは彼らが悪いとかいう意味ではなく、彼らが専門家ではないからに過ぎないのです。彼らからすると、妻は浮気のことを思い出して、怒りをぶつけてしまうのだといった理解をするのです。だから、R氏のように、どうやったらそれを思い出させなくて済むのか、どうすれば怒りを鎮めることができるのか、そういう方法ばかり考えるようになるのです。Q氏にもそういう傾向が少しばかり見られたのですが、結局、夫のそうした対策は妻の機嫌をさらに損ねてしまったりするのです。
 まず、妻たちが普通ではとても理解できないような出来事を体験しているということを夫たちには理解してほしいと私は願うのです。
 なぜ、ここでそんなことを述べているのかと言いますと、夫も妻も、彼らからすれば信じがたいような話を私がしたとしても、どうか驚かないでほしいと思うからであります。もし、それ(妻の「発作」)が普通の体験でないならば、それは普通の説明では説明できないのであります。
 さて、以上、妻の「発作」の過程を見てきました。その中でいくつもの問題設定がなされたのですが、これから一つ一つ検討していきたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)