<16-4-2>発作の過程(1)

<16-4-2>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~「発作」の過程(1)

 本節では妻に生じる「発作」を取り上げます。この「発作」は5つの過程を経て終結するようであります。
 この過程は時期によって、つまり浮気発覚直後の初期の頃とか、それから時間を経た後期の頃とか、そういう時期によって多少それぞれのウエイトに変動が生じることもあります。初期には②の段階が大きいが後期になるほど小さくなるとかいった具合にです。しかし、5つの過程のそれぞれは多かれ少なかれ確認できるように思います。
 前項では簡潔に過程を紹介しましたが、本項からそれぞれの過程を、注釈を加えながら辿ってみたいと思います。

(起点としての想起)
 この「発作」が発生する時、妻たちは何かを「思い出した」という表現をします。それは夫の浮気やそれに関する何かを思い出したということであるようです。妻たちが「発作」について話す時は、この「想起」を起点にしていることが多いようです。
 おそらく、妻たちはそういうふうにしか言えないのだと私は思います。また、夫たちは妻のその言葉を鵜呑みにしてしまうようです。
 後に取り上げることにしますが、この想起は通常の想起とは幾分性質が異なっているのです。

(きっかけ)
 妻たちがそれを想起(妻たち自身がそのように言うのでそのまま使用します)する時、そのきっかけとなる出来事があることもあります。
 その出来事は非常に些細なものであったり、まったく無害のものであったりします。例えば、テレビをつけたらワイドショーで芸能人の浮気を報道していたのを見たとか、そんなことでもきっかけになるわけであります。
 妻たちの言葉をそのまま信用すれば、夫の浮気を連想させるようなことはどんなものであれ、それに触れると妻に想起が生じ、「発作」へとつながっていくということなのです。
 夫が浮気している期間中に夫婦で訪れた場所に行くと、それだけで想起が発生し、「発作」に至るなどもあります。これは、つまり、前にここに来た時、夫は浮気していたんだなあといった連想が妻の中で働くのでしょう。
 朝、出勤する夫を見送っただけで妻に想起がもたらされ、「発作」が起きるということもあります。これは、つまり、こうして毎朝夫を見送っていながら浮気されていたんだといった連想が妻の中で働いたりするのでしょう。

(きっかけの消失)
 極端に言えば、どんなことでも妻の中に「想起」を引き起こすきっかけになり得るのです。ただし、こういうきっかけはやがて消失していくようです。初期の頃(つまり、夫の浮気が発覚してから時間がそれほど経過していない時期)にはきっかけとなる出来事や連想が特定できていたのに、やがてそういうものがなくても「発作」が起きるようになるのです。
 私は少しでもきっかけになったことはないか思い出してもらいたいのですが、妻たちはきっかけはないと答えます。Q夫人もそうでしたし、R夫人も(夫であるR氏を介してですが)同様でした。初期にはきっかけがあってから生じていた「発作」が、後にはきっかけ無しで生じるようになったと報告しています。
 きっかけ無しで「発作」が起きるということ、つまり「発作」が自動化するということは、その「発作」が妻に「定着」したことを意味しているように思われます。妻の自我にとって、その「発作」が親和性を帯びてきているのだと思います。
 想像に難くないことでありますが、それがその人に定着すればするほど、そして、その人に根付けば根付くほど、それを除去することが困難になるわけです。

(言語化できない何か)
 一体妻たちに何が起きるのでしょう。私は知りたいと思います。しかし、妻たちはそれを言えないのです。そこで言語化できない何かを彼女たちは経験してしまっているのだと私は想定しています。それを言語化できないので、行動化してしまわなければならなくなってしまうのだと私は考えています。
 それを言語化できない背景には次のようなものがあると私は考えています。
 一つはそれが言語的に表現できないような体験であるということです。圧倒的な勢いでそれが彼女たちに迫ってくるのです。あまりにもそれが強烈なので、彼女たちの自我はそれを把握できないのだと思います。
 次に、上述のものと共通していることですが、それが不意に発生して彼女たちを襲うので、彼女たちもそれに対処しきれず、混乱してしまうということもあるかもしれません。
 そして、彼女たち自身の言語化能力も関係するかもしれません。こう言ったからといって、私は別に彼女たちを批判しているわけではありません。それを言語化して正確に伝えようとすれば相当な言語能力を必要とすることでしょう。彼女たちは自分の体験していることを言葉で伝えようとしても、それが上手くいかないとか、適切な表現が出てこないとかいった感情を持つこともあるようです。伝えたくても伝える手段がないといったもどかしさを経験しているような節も見られるように私は思います。
 「発作」の後に言語化しようとしても、「発作」時のことはあまり明確には覚えていないといったこともあります。「発作」の出来事は覚えているのだけれど、その時に、自分が何を感じていたとか、何を言ったとか、あるいは何が見えていたとか、彼女たちは漠然とは覚えているようなのですが、どこか曖昧になっていることがあるように私は感じております。
 「発作」時の妻には、妻自身にも訳の分からないことが生じているのであり、それを言語化して伝えようとしても上手くいかないのです。従って、この状態の時に妻が言うことは、彼女の経験していることの断片でしかないという可能性を秘めていると私は考えています。
 彼女たちの言っていることがウソであるとか正しくないとか、決してそういう意味ではありません。ただ、そこで彼女たちが述べることは、彼女たちに生じていることのごく一部分でしかない可能性があるということです。混乱している中で、彼女たちの自我がかろうじて把握できているもののみが言語化されて夫に伝えられているかもしれないというわけです。
 当然のことながら、夫たちはその可能性に気づいていません。彼らは妻から伝えられたことが全部だと信じてしまうようです。もちろん、夫に悪気があるとか、彼が抜けているとか、決してそういう意味ではありません。彼らは妻の言っていることを素朴に信じているのです。ただ、彼のその素朴さによって、夫は妻を理解し損ねてしまうことも多いように私は感じているのです。
 しかし、あまり先取りして話を進めないようにしましょう。私たちは今は「発作」の過程を追っていきましょう。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)