<16-4-16>感情論(3)

<16-4-16>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~感情論(3)

(感情的正当性の優位)
 「発作」時の妻たちは激しい感情に動かされていますが、それだけで彼女たちを感情のコントロールができない人といった評価を下さないように注意する必要があります。夫たちのすべてが表現しているように、「発作」時の妻はその他の日常場面の妻と同じ状態ではないのであります。そのように仮定すれば、「発作」時の妻には特別なことが起きていると考える方が適切であります。
 しかしながら、Q夫人もR夫人も、その他本節で取り上げている妻たちはすべて感情要素の強い性格を有しているように私には思われています。Q夫人以外はすべて夫の報告に基づくものであり、間接的に話を伺っているにすぎませんが、やはり感情に関する傾向が強いという印象を受けています。
 彼女たちが感情優位タイプであるとしても、それ自体は問題ではないのですが、いささか厄介な傾向が生まれてしまいます。それを「感情的正当性の優位」と呼びましょう。
 ここで感情的正当性と呼んでいるのは、事物の判断や行為の正当性などの根拠がもっぱら当人の主観的な感情に基づいているという意味であります。妻にとって何が正しくて、何が間違っているかは、妻の感情で決まってしまうのであります。正否の根拠が主観的感情だけであり、主観的感情だけで他者や事物の正否が決定されてしまうのです。彼女たちにはそういう傾向が認められるように私は感じています。
 感情的正当性とは、簡単に言えば、その人にとって感情的に快であるものは正解であり、感情的に不快であるものは間違っているという、そういう判断をするということであります。感情的に不快である経験は彼女たちを傷つけてしまうようであります。以下、いくつかの場面を拾ってみましょう。
 感情的正当性が優位であることは、妻たちの「治療」を困難にする一つの要因になります。R夫人は「治療」を受けた経験があるのですが、苦しいから止めたと言います。また、自分はすでに傷ついて苦しんでいるのに、どうしてさらに苦しい思いをしてまで治療を受けないといけないのだと憤慨した妻もあります。彼女たちの言葉の正当性の根拠は、もっぱら彼女たちの主観的感情にあることが窺われます。
 「発作」というものは、できることなら回避するに越したことはありません。もし、「発作」が起きたとしたら、速やかにそれを終わらせる努力をした方がいいと私は思います。つまり、抑制の方向に向かう方がいいということであります。と言うのは、一気に諸感情が押し寄せて自我を圧倒するという状態はきわめて危険な状態にあると私は思うからであります。しかし、Q夫人は逆の見解を主張します。最後まで発散させなければならないと彼女は感じてしまうのであります。しかし、彼女のその主張の根拠は抑制することは苦しいからであるというところにあります。彼女の中では苦しいことは間違っていることであると判断されていたのかもしれません。
 苦しいことは誰も経験したくないと思うことでしょう。できれば苦痛なことは避けたいと思うのが人間であると思います。ただ、苦しいことが正しい場合もあります。痛い思いをしたからといってその手術が間違っているとは評価できないのです。従って、その苦がどこに向かうためのものであるか、あるいはその苦によって何が達成されようとしているのか、そういう点も考慮しなければならないわけですが、そういうことが判断の基準になっているのではなく、苦の有無自体が判断の基準になっているところに問題があるように私には思われるのであります。
 また、感情的正当性の優位が報復と結びつくと厄介な事態に陥ることもあります。相手に対する過剰な攻撃も自分の感情で正当化されてしまうのです。あきらかにやりすぎである行為であっても、私はこれだけのことをやられたのだからこれくらいやり返して当然だと考えるのであります。
 これの極端な例は犯罪者に見られます。例えば、投稿した作品を盗作されたから、その会社に放火して何人も殺して当然であるといった犯人の主張は、その犯人が感情的正当性に支配されていることを示しているわけであります。
 さらに、夫たちも災難であります。夫たちがどれだけ反省したか、どれだけ以前と変わったかといった評価も妻は自分の感情だけで判断するからであります。つまり、妻が以前と変わらぬ苦しさを経験しているとすれば、それだけで夫は反省していないと評価されてしまうということであります。
 端的に言えば、彼がいくら努力しても、妻がそれを認めるかどうかは妻の感情次第ということになります。自分たち夫婦がどれだけ成長したか、どれだけ前に進んだかといったことも、妻の感情だけで決定されてしまうことになりかねないのであります。
 もしそうであれば、彼女たちにおいては、主観的感情と外的世界や対象とが十分に分化されていないことを示しています。そうなると、自分の感情状態が悪いままであっても相手が改善していっているという可能性が彼女たちには理解できなくなってしまうのであります。自分は苦しいままなのに、なぜ夫は改善していると言えるのだと、彼女たちは疑問に思うことでしょう。

(共感ということ)
 もうひとつ、これは余談みたいなものですが、感情優位な人の場合、共感してくれるカウンセラーはいいカウンセラーであり、知的に理解したり解釈を投与したりするカウンセラーは悪いカウンセラーであるといった評価をすることもあります。Q夫人から見ると、私は冷たいカウンセラーとして映っていたのではないかと思うのであります。彼女はよく継続したなと私は感心するのであります。
 同じように、彼女たちにあっては、自分の感情を共感してくれるようなサイトを信用することでしょう。私のこのサイトは彼女たちから見ればかなり厳しいものに見えるのではないかと危惧しています。夫たちのためにこれを書いているといちいち私が自己弁護する
のも、私のその危惧に基づいています。
 実際、妻たちにとっては共感されるということがとても大事なことであったように思います。「発作」時において彼女たちが求めるものの一つにそれがあるように思います。彼女たちからすれば、夫は共感してくれない人間であり、彼に共感してもらおうと欲すれば、自分が受けたのと同じような苦しみを夫も経験しなければならない、そうでないと分かってもらえないと、そのように考えている節が垣間見えるのであります。
 「発作」の過程の項で述べましたが、彼女たちの言動は必ずしも報復の原理に基づいているわけではないのです。彼女にとっては、夫が同じ苦しみを経験しない限り、夫には共感してもらえないといった恐れがあるのだと私は思います。しかし、その思想そのものが感情優位のものであることは容易に見て取れることであります。
 彼女たちは自分の感情に共感してくれることを求めるのですが、しばしば過剰にそれを求めてしまうようであると私は感じております。そして、この場合の共感とは、自分の感情と完全に一致するものでなくてはならないといった頑固さが感じられることも私にはありました。さらに、困ることには、妻たちはそういう共感を夫に強制してしまうといった場面もあるように私は感じています。こういった「共感」は共感とは呼べず、むしろ「一体化」と呼べるものではないかと私は思うのですが、それに関してはいずれ述べる機会があることでしょう。

 本項で取り上げた感情的正当性の優位ということに関しては、また後に取り上げる機会があるかもしれませんので、ここではこれくらいにしておきます。感情的正当性の優位は夫婦の改善に対しても妨害的に作用することがあり、私もまた手を焼いたところであります。
 もちろん、感情的正当性の優位にも個人差があると思います。どの妻にもある程度これが見られたとは言え、それのより強い妻もあればより弱い妻もあるでしょう。常に感情的正当性を主張する人もあれば、時と場合に応じてそれが出てくるといった人もあることでしょう。個人差のことは常に念頭に置いていただきたく思います。
 それでは、以上の感情に関する若干の予備知識を得た上で、妻たちの「発作」場面に戻りたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)