<16-4-15>感情論(2)

<16-4-15>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~感情論(2)

(感情と思考)
 前項では自我が感情を体験し、感情を把握し、表現するものであることを述べました。自我が把握できない感情、もしくは十分に把握できない感情は無意識化されるかモヤモヤした形で残るということも述べました。感情の体験も把握も表現も、すべてに自我が関与していることであり、自我がよく機能しているほどそれらが適切にできるであろうと仮定してきました。
 次に押さえておきたいことは感情と思考との関係についてであります。
 まず、感情と思考とは世間一般に信じられているほど対立的な関係にあるのではなく、むしろ相補的な関係にあると私は考えております。一方が他方に奉仕する形の関係であります。思考は感情を適切な方向に導き、感情は思考を人間的なものにすると私は思います。
 感情要素が一切欠落した思考というものは、例えば分裂病者(統合失調症者)の思考に端的に見ることができます。彼らの思考はあまりにも合理的すぎるのでありますが、それは感情的要素が欠けているために、きわめて非人間的な印象を与えるのであります。
 思考を一切欠いた感情というものは、いわゆる暴発反応のようなものになると私は思います。盲目的に感情に従うといった現象になるのではないかと思います。
 人間はトータルな存在でありますので、思考と感情というように二分できるものではありません。仮にどちらかが優位であることを認めるとしても、肝心なことは両者の関係のあり方であります。

(感情的優位)
 児童においては、内的感情が優位であります。大人になるに従って、内的感情は修正や統御を受けることになります。これは思考の発達、意志の強化、社会化の促進などにより内的感情優位の状態から脱していくわけであります。
 従って、盲目的に感情に従う状態から、分別のある行動へと感情を導くことになります。そうして大人にとっては感情よりも分別ということが大事になってきます。
 現実にはさまざまな移行段階を認めることができると思うのですが、ここでは話を簡略にするために感情優位と分別優位というふうに分けます。
 感情優位の場合、例えば、楽しかったら何をやってもいいといった思考になるでしょう。分別優位であれば、楽しくてもやってはいけないことはやらない、節度を守るといった思考になることでしょう。
 怒りの場合でも、感情優位であれば、怒りがあれば発散してよいということになるでしょう。分別優位の場合、怒りがあってもその場をわきまえるといったことをするでしょう。ちなみに、後者の場合、怒りの抑制とかコントロールとかいった言葉で表現されるのですが、私はそうした表現に賛成ではありません。誤解を招く表現であると思っています。怒りの抑制を目指しているのではなく、分別の達成を目指しているのであります。この分別の達成は理性と言ってもいいと私は思います。理性の達成を実現することなのであります。
 しかしながら、次のような反論が生まれることと思います。大人でも感情優位の人、いわゆる感情タイプの人がいるではないか、その人たちのことをどう考えたらいいのだと。
 この反論に対しては次のことを押さえておくことにします。子どもが感情優位なのは社会化の未発達によるものであり、感情タイプの大人(その大人が精神的に健康である場合)では、それは社会化の発達の上に成立している性格傾向であると。

(高次機能の減退)
 児童は感情優位であるからといって、感情優位タイプの成人が幼稚であるとか未熟であるとか、決してそういう意味ではないということも押さえておきたいと思います。同じ感情優位であるといっても、思考の発達、意志の強化、社会化の達成などの程度を見なければなりません。つまり、高次機能が身についているかどうかという区別の方が重要であります。高次機能が身についた感情優位であるか、高次機能が身につく以前の感情優位であるか、その点を見る必要があると私は思います。
 従って、ある一人の成人が内的感情むき出しの言動をしたとしても、それだけでその人を分別のない人であるとか、幼稚な人であるとみなすことは正しくありません。その人が普段の状態では分別をもって行動できるのであれば、それはむしろ高次機能の減退ないしはそれが損なわれた状態として見る必要があるように思います。
 つまり、精神の高次機能が損なわれたために低次のものが活性化されたり解放されたりして、低次のものの活動が過剰になるということであります。分別のある言動から感情に盲目的に従う段階へ退行したとみることができるわけであります。その言動をした時にはその人はそのような状態にあったということが言えるのであって、それは必ずしも平素からその人がそういう人であるということを指しているわけではないのであります。
 少し非難めいて聞こえるかと思うのですが、「発作」時において妻たちが失うのは「分別」であると言ってもあながち間違っているとは私には思えないのであります。彼女たちは、ある意味ではむき出しの感情に支配されてしまっているように思います。ただし、その時の妻たちはそういう状態に陥っているだけであって、普段の彼女たちはある程度の感情も統御できれば、十分な社会化も達成しているのであります。「発作」時の彼女たちを見て、それだけで彼女たちの人格を評価することは慎まなければならないことであります。
 
(感情タイプ)
 しかしながら、彼女たちは感情タイプに属しているように思います。実際にお会いしたのはQ夫人だけでしたが、R夫人やその他の妻たちも、夫たちの話から判断すると、彼女たちはやはり性格的には感情タイプに属する人たちであるという印象を受けています。
 夫たちはどちらかと言えば感情が劣位にあり、むしろ思考タイプに属する人たちであるように思います。従って、夫に欠けているものを妻が補い、妻に欠けているものを夫が補うといった関係の夫婦であると考えることができそうであります。ある意味では理想的な夫婦とも言えるのです。
 妻たちの性格傾向が感情タイプに分類されるとしても、それ自体は良くも悪くもないということを押さえておきます。そこに価値判断は入らないのであります。彼女たちが感情タイプであるとすれば、それはそれで彼女たちの魅力にもなっていることでしょう。思考タイプの男性であればそういう女性に惹かれることもあるでしょう。
 性格傾向そのものは良くも悪くもないものであります。ただ、その傾向が場面によって望ましいふうに現れることもあれば、あまり望ましくないふうに現れることがあります。どの性格傾向であれそれは認められることなのです。
 妻たちにはそれぞれその人なりの良さというものを十分に持っています。そこは繰り返し押さえておきます。その上で、彼女たちの性格傾向においてちょっと困ったところを次に取り上げることにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)