<16-4-14>感情論(1)

<16-4-14>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~感情論(1)

 私たちは妻たちに見られる「発作」を理解しようと試みています。「発作」の過程に従って理解を深めていこうと試みているのですが、少しその過程から離れて、感情ということについて考えてみたいと思います。
 私たちは日々生活しています。それはいわば活動の連続でありますが、観点を変えれば私たちは不断の感情体験をしていることになります。私たちは常に何らかの感情体験をしながら生きていると言ってもいいと思います。
 感情に関しては様々な考え方があります。また、それ自体膨大なテーマを内蔵しているものであります。ここでは感情に関する私の仮説を述べ、且つ、本節のテーマに必要なものを限定して取り上げることにします。

(自我は感情を体験する)
 まず、最初に、感情の生起には身体的要因が強く働きます。神経伝達活動が過敏または鈍感になったり、神経や筋肉が緊張または弛緩したり、心臓の活動が亢進したり減退したりして血流量が増減し、体が熱くなったりまたは震えがきたりといったことがあります。
 自我はそうした身体感覚の変化を体験すると同時に、それが生み出す感情をも体験します。感情を生起するのは身体的な要素も大きいけれど、感情を体験するのは自我であると、このように仮定しましょう。
 身体は感情を体験するといった考え方もあると思うのですが、身体は身体変化のみを体験しており、感情を体験するのは自我であると私はそのように捉えています。身体は感情表現の際に用いられることがあるのですが、そのことが身体が感情を体験しているように見せてしまうのだと私は考えています。感情を体験するのはあくまでも自我であります、そのように仮定しましょう。

(自我は感情を把握する)
 感情には強度と言える要素があります。強い感情とか弱い感情、大きな感情とか微細な感情とかいうように、強弱という要素があります。
 また、感情には持続の要素を認めることもできます。瞬間的あるいはきわめて短時間に経験される感情から、長期に渡って経験される感情を認めることができます。感情には持続があり、時間的な長短という観点を含みます。
 自我は感情を体験すると同時に、その感情を把握して、それがどういう感情であったかという認識をすることもできます。あれは楽しかったとか怖かったとかいったように、自我はその時に経験した感情がどういうものであったかを把握しています。その際、自我が把握できた感情のみが認識されると仮定しましょう。

(自我が把握できない感情もある)
 感情体験の認識は自我が感情を把握できている範囲内に限られていると仮定すれば、自我が把握できなかった感情体験があるということも仮定することができます。
 私たちは自我が把握できた範囲内において、あれは楽しかったとか怖かったとか表現することができます。その範囲外の感情体験は表現することができないということになります。
 自我が把握できなかった感情体験は、認識されず、見過ごされ、無意識化してしまうこともあるでしょう。得体の知れない何かモヤモヤした気分のようなものとして残ることもあるでしょう。
 ある特定の感情に対しては自我が否認するということも起こり得るでしょう。自我が受け入れたくない感情は否認され、無意識化されてしまうことがあります。
 しかし、否認によらないものもあるでしょう。例えば、その感情体験が微小なものであったり、時間的に瞬時のものであったりしたときには、それ以外の大きな感情体験だけが把握できているということもあるでしょう。小さな感情体験は見過ごされやすいし、無意識に押しやられてしまうこともあるでしょう。
 逆に感情体験が大きすぎたり強すぎたりする場合においても自我は把握できなくなることでしょう。あまりに強烈な体験をした場合、それによって自我が圧倒されてしまい、感情が鈍磨することもあります。私もこれは経験したことがあります。感情が麻痺したというか、その場において無感情のような状態で硬直してしまうといった体験であります。今のことを逆に言えば、ある人が無感情に陥ったり、凍り付いてしまっているような状態にあるとすれば、その人は何か強烈な体験をしていることが窺われるわけであります。例えば、災害等に罹災して、自分の生まれ育った家が崩壊するさまを無感情に眺めていたといった報告もあるようです。専門語を使えば離人体験をしているということでありますが、自我が圧倒され、自我は感情を把握する機能を喪失していたというように言えるかもしれません。
 また、感情は単一のものが経験されるとは限りません。同時に複数の感情体験をすることが私たちにはあると思うのです。例えば、嬉しいと同時に悲しいとか、嬉しくもあり悲しくもありといった体験であります。しばしば感情は複合的であります。複雑で複合的な感情は自我による把握が難しいかもしれません。複雑になればなるほど、何らかの感情は把握できていても、それがどういう感情であるかと輪郭づけることが困難になるかもしれません。
 さまざまな場合が考えられるのですが、自我は常に感情を把握できているわけではなく、その把握から漏れる感情体験というものがあるという仮定を押さえておきます。

(把握できない感情は欺瞞される)
 自我は常に感情を把握しているとは限らず、様々な場面において、自我の把握から漏れる感情体験があると仮定しました。そのような感情は、まったく無意識、無自覚のままであるかもしれないし、かろうじて自我が把握できている範囲において体験されている場合もあるでしょう。
 しばしば、輪郭づけられない感情体験は言いようのないモヤモヤしたものとして個人の中に残る場合があります。それがどういう感情であるのか表現しようにも表現できないのです。
 そのモヤモヤした感情を抱え続けるのは苦しいことでもありますので、時に、人はそういう不気味な感情にごまかしをかけるのです。それを明確化していくことを避けて、偽装するわけであります。
 その場合、偽装された感情の方が何らかの形で表現さることになります。これはいわゆる自己欺瞞と呼ばれる現象であります。

(感情は表現される)
 感情は表現されます。その際に、自我が把握できている感情が表現されることになります。自我が把握できていない感情は、それの偽装が表現されることもあるわけです。
 感情の表現はまず行動として見られます。笑うとか泣くとか、そういう形で表現されます。不安や心配はそわそわした身振りで表現されていることもあれば、不眠や強迫的な行為で表現されていることもあります。
 次に感情は身体的に表現されます。これは一部では行動的表現と重なるものであります。表に出していなくても肩をいからせている人は怒りの感情体験をしているかもしれません。また、敵意は頭痛などとして表現されることもあります。
 最後に言語的表現があります。自分の感情体験を言語的に表現するというものであります。カウンセリングであれ、告解であれ、これが目指されていることが多いのです。
 行動的表現においては、主体は感情と一体ないしは一致していると考えることができるでしょう。しかし、一方で、感情に呑み込まれたり、巻き込まれたりといった状態に陥っている可能性も生まれてきます。
 身体的表現の場合、しばしば主体は自分の感情に気づいていなかったりします。自我は何らかの感情体験を把握しているとしても、主体がそのことを意識化できていないということもあるわけです。
 言語的表現は、私の考えでは、感情を体験しながら、その感情と距離を置くことができているのです。感情に巻き込まれたりすることなく、感情そのものを見ることを可能にすると私は思います。

(自我機能)
 自我は感情を把握し、表現します。そのように仮定すると、自我がよく機能している人の方がより自分の感情を把握できるということになり、より適切にそれを表現することができるということになります。自我機能が弱化しているほど、感情が分からなくなり、表現する手段が不適切と言いますか婉曲的になることでしょう。
 以上、感情に関して私が支持している仮説を述べてきました。続きは次項に引き継ぐことにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)