<16-4-12>「想起」(2)

<16-4-12>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~「想起」(2)

(想起は現在の状況に組み込まれること)
 妻たちの報告するところに従えば、彼女たちの「発作」の起点は彼女たちが何かを想起するところにあります。その想起は非意図的なものであります。そこで非意図的想起というものがどういう現象であるかを見ていこうとしています。その際、私自身の体験に基づいて考察してみようというわけですが、もちろん、他の人がどのような体験をしているかは分からないので、私は私の体験に頼るしかないのです。
 私は前項にて私の非意図的想起の体験を綴りました。電車の中で思い出し笑いをしたというエピソードです。前項の続きを始めましょう。
 ここでもっとも重要な点は、この想起が現在の私の状況に適合しているということです。言い換えれば、この想起は私の現在の状況に組み込まれているということです。
 私は前夜の情景を想起していますが、これは現在の状況下においてなされていることであり、現在の状況の文脈を超えるものではありません。私が電車に乗っていること、マスクで口元を隠していること、駅に着くまでの時間に限定されていること、こうした現状の枠内で想起が起きているのです。
 加えて、疲労している時に愉快な記憶がよみがえること、退屈な時間を楽しいものにしたことなど、この想起の目的(があるとすれば)もまた現在の私の状況に組み入れられていると考えることができます。
 私の想起は、その時の私の現実の状況の枠内で生じ、私の現状に組み込むような形で生じます。どこまでも現実の、現在の私が基盤にあり、その基盤の上に想起が生じているのです。この想起は私の現在の現実に従うのであります。現在の現実が想起を規定しているわけであります。

(体験そのものと気分)
 その楽しい出来事を体験したのは前夜でありました。翌朝、私はその場面を想起したのですが、出来事そのものを再体験しているわけではありません。この区別が重要であります。
 想起と戯れている間、私は前夜と同じような感情とか気分といったものを体験しています。従って、前夜の体験をそのまま繰り返しているのとは違うわけです。たとえ前夜と同じような感情状態、気分を経験していても、今と前夜とはどこかで区別されています。あたかも、片足は今、片足は前夜といった感じであります。
 昨夜のことを思い出し、昨夜経験したのと同じような感情状態になっているけれど、今が昨夜ではないことが認識されています。同じ感情状態になっていても、昨夜の私と今の私とは明確に区別されて認識されています。それを体験したのは前夜であり、今体験していることではなく、今体験しているのは前夜での体験に伴う気分であるということがどこかで認識できています。

(身体的領域)
 前夜のことを思い出し、前夜と同じような気分を体験しています。測定したわけではないけれど、おそらく、身体状態も前夜と近い状態になっていただろうと思います。
 少しだけそれに触れておこうと思います。私たちは出来事や経験を認知的に記憶するだけではなく、身体的に記憶することもできます。「昔取った杵柄」というように、いわゆる「体が覚えている」という形式の記憶であります。
 私は想起には三つの柱があると考えています。一つは認知的な記憶であります。これは純粋に想念として想起されるものであります。楽しい場面が頭の中で見えるというとき、認知的な領域での想起であると捉えてます。
 次に感情や気分の記憶があります。過去のその場面と同じような感情・気分として想起されるものであります。この場合、過去の具体的な場面が想起されるとは限らず、漠然とした情景であることもあるでしょう。
 そして身体的な記憶があります。過去のその場面と同じような身体感覚として想起されるものであります。こちらは動作として思い出されたりします。
 しかしながら、私たちが何かを想起する時、その三者がそれぞれ働くことが多いと私は仮定しています。私の思い出し笑いの例では、最初に認知的な想起が生じました。前夜の場面が浮かんできたのです。次いで、前夜の気分や感情が想起されました。そして、おそらく、身体的領域に関することも前夜と同じようなものが想起されていたことでしょう。
 しかし、この順番は入違っても可能であったでしょう。最初に胸が躍るような身体感覚が生じて、楽しい気分が高じて、前夜の情景が思い出されたといった展開をとることも可能であったと思います。三者のどれが最初に来ても想起が生じただろうと思います。

(心的機能の分化と統合)
 もう一つ重要な概念を取り上げようと思います。それは心的機能の分化と統合という概念であります。
 私は前夜のことを思い出してしまい、「思い出し笑い」をします。
 この時、私の一部は前夜の情景を見ています。
 同じく、私の一部は前夜の情景を思い浮かべて愉快な気分になっています。
 一方で、私の一部はここが電車の中であることを認識しています。
 そして、私の一部は車内で大声で笑ってはいけないと判断しています。
 それでいて、私の一部はマスクで口元が隠れているから少々笑っても大丈夫だろうという評価を下しています。
 おそらく、私の一部は読書で疲労感を覚えていたでしょう。ただ、これは背景になってしまっていましたが、まったく消失したとも言えないかもしれません。
 加えて、私の一部はその想起が駅に到着するまでのものであるという時間的な展望を持っています。
 他にもいろいろ挙げることができるでしょう。私のそれぞれの部分が独立して機能していると同時に、相互に関連しあい、全体的な調和を保っていると考えることができるでしょう。これを心的機能の分化と統合と考えることができます。
 さて、心的機能(おそらく身体機能も)は発達とともに分化していき、かつ、各部分が統合されて機能するものです。分化と統合が進んでいるほど、その人の自我はより高次にあり、分化がなされてなくて全体反応をすればするほどその人の自我はより低次の段階にあると仮定しましょう。低次というのは、発達のより初期の段階という意味であり、高次というのは発達のより進んだ段階のものと理解していただいてけっこうであります。
 赤ちゃんを見ましょう。赤ちゃんの目の前に何か玩具でも見せます。赤ちゃんはそれをつかもうとします。その時、赤ちゃんは全身を使ってそれをします。手を伸ばすだけでなく、一緒に足も延ばしたりします。これは赤ちゃんの身体機能がまだ全体的であって、分化されていないことを示すものであると考えられるわけであります。心的機能においてもやはり同様であると仮定することができるのです。赤ちゃんが笑う時は、心的領域全体で笑い、それだけでなく全身で笑うのであります。
 もし、電車の中で昨夜の情景を思い出し、私が大笑いをして、床に転がりまわってまで笑い転げたとしたら、私は全体反応をしたということになります。それぞれの領域が分化して機能しているわけではないので、当然、そこには統合もないわけです。この時、私はより低次の反応をしたということになります。従って、そこでは高次の心的機能が損なわれ、私は低次の段階まで心的に退行しているということが言えるのであります。
 さて、私たちは今度は妻たちの想起に目を転じてみることにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)