<16-4-11>「想起」(1)

<16-4-11>浮気のケース研究~Q夫妻とR夫妻~「想起」(1)

(「発作」の起点)
 妻たちは「発作」が始まる時に何かを「思い出した」という表現を用います。妻たちが「発作」を振り返った時、その起点として挙げられているのが何かを「思い出した」という体験なのです。「想起」の内容は、言うまでもなく、夫の浮気に関係する事柄です。
 すでに述べたように、私は「発作」の起点をそれよりも以前に置いています。想起はむしろ二次的な産物であり、その後の「発作」の経緯において生じることは三次的産物であるという見解を私はしています。妻たちの中で最初に生じるものが何であるかを考えていくことになるのですが、これは妻たちにもよく分かっていないようであり、言語化できないような何かを経験していると私は考えています。従って、第二次産物、第三次産物の考察を通して第一次産物にあるものを憶測していくことになります。
 まず、私たちは「想起」ということから見ていくことにしましょう。

(きっかけ)
 妻たちがあることを思い出した時に、それを思い出させた出来事が認められることもあります。つまり、それを思い出す「きっかけ」になるような出来事です。
 これもすでに述べたように、初期の頃には認められるものの、時間が経つほど「きっかけ」なしで「発作」が起きるようになるようです。
 私たちはここで「きっかけ」の内容に入らないでおきましょう。あらゆることがきっかけとなり得るからであります。
 むしろ、ある出来事が契機となるかどうかは、妻のその時の状態にかかっている部分が多いと私は考えています。芸能人の不倫報道に接したという場合、妻がその報道をどのような意味合いのものとして受け取るかは、その時の妻の状態に大きく左右されるものであります。私はそのように考えていますので、外的なきっかけに拘る必要はないと思います。
 妻の状態というのは、先述のように意識水準が低下しているとか、そのために集中が低下しているとか、転導性が高まっているとか、被影響性が強まっているとかいうことでありまして、そうした状態の変化によって、同じことでも「発作」の契機となったりならなかったりするように私は考えています。いずれにしても、妻の中で何かが思い出されるそうであります。
 では、私たちは想起の問題に入って行きましょう。

(非意図的想起)
 私たちが何かを思い出すというとき、意図的にそれをすることがあります。それを思い出そうとして、記憶を辿っていくということをします。それはある事柄を意図的に且つ意識的に思い出そうとする心的活動であります。言うまでもなく、ここで問題となるのはそうした種類の想起ではありません。
 妻たちがあることを想起したと言う時、彼女たちはそれを思い出そうと意図してやっているわけではないので、妻たちの想起は非意図的なものであります。
 自分が意図したわけでもない想起、つまり非意図的想起ということですが、それ自体は何も異常なことではありません。おそらく、どの人も多かれ少なかれそういう経験をしたことがあると思います。
 この現象を取り上げるために、私は私自身が最近経験した非意図的想起を例にしたいと思います。そこで私はいわゆる「思い出し笑い」をしたのでした。

(非意図的想起の現象)
 朝、出勤時のことです。私は電車に乗っていて、本を読んでいました。いささか難解な内容のものだったので、集中して読んでいると疲労してきました。それで一旦本を閉じて、少しボンヤリしました。すると、昨夜の情景がひとりでに思い浮かんできたのでした。その前夜、ちょっと楽しいことがありまして、そのことが思い出されたのです。私はウッカリ笑みを浮かべてしまって一瞬焦ったのですが、自分がマスクを着用していることに気づきます。そして、マスク着用をいいことに遠慮なくニヤニヤしていました。昨夜は楽しかったなあとか、あいつバカだなあなどと思い出しながら電車の中で過ごしていました。やがて駅に着いたので、想起を打ち切り、私は下車したのでした。
 何の変哲もない思い出し笑いの情景ですが、ここにはさまざまな心的要素が含まれており、尚且つ、展開を見せています。少し丹念にこのいきさつを見てみましょう。
 まず、私は集中して本を読んでいました。集中するとは意識水準を高いところで維持することであります。当然、疲れてきます。疲れたのでボンヤリします。これは、集中を解いたということであり、意識水準を低下させたということになります。
 意識水準が低下すると、さっきまで意識から排除されていた観念が自然に浮かんできて、意識野に入ってきます。ここではそれが前夜の場面であり、その場面が私の思い出し笑いを誘発します。当然のことながら、その情景を思い出そうと意図したわけではありませんでした。昨夜の情景が勝手に浮かんできたのです。それはあたかも過去の現在への侵入といった感じであります。
 思わず笑みを浮かべてしまい、一瞬焦ったけれど、マスクを付けてるから誰にもわかんないやなどと思います。こんなふうに考えることができるのは不思議なことです。私には前夜の情景が頭に浮かんでいて、頭の中ではそれが見えているのだけれど、それと同時にここが電車の中であり、周りにたくさんの人がいること、自分がマスクを付けていることなどが意識されているのです。自分が今どこにいて、何をしているところであるのか、そういう見当識とか現実認識とかが一方では働いているのです。過去の場面が見えていると同時に、現在の現実の知覚も損なわれていないのです。
 それから私は自分の想起と戯れます。過去のその情景と関わるのです。それは楽しいものでありました。昨夜の楽しい気分を再体験する思いでした。しかし、再体験されているのは昨夜の出来事ではなく、昨夜の出来事に付随する気分であるということもどこかで分かっているのです。昨夜の情景が頭の中では見えていても、それは現前しているものではなく、私には現在の情景が知覚されています。ただ、前夜の楽しい気分が再体験されているような感じがしています。
 なぜ、昨夜の楽しい情景が思い出されたのかは分かりません、他の場面が思い出されても良かったでしょう。私は難解な本を読んでいました。私の中に「陽気さ」が欠けていたので、それを補うかのように陽気な情景を心が選んだのかもしれません。
 しかし、この想起の目的がどこにあったのかと言いますと、駅に着くまでの時間を忘れさせてくれたという点に求められそうです。これが想起されなかったら、電車の中でボンヤリとし、何もせず、不毛な時間を過ごしていたかもしれません。それは苦痛な時間となっていたかもしれません。この思い出し笑いはその時間を忘れさせてくれたことになります。
 そして駅に着きます。駅に着いたということが私には知覚され、認識されています。私は想念を打ち切って下車します。想念を遮断できるということは、その想起が私の統制下にあるということを示しています。自我がそれをコントロールできるということであります。そして、それを自我がコントロールできるということは、それが私の内部にあるものであるという実感をもたらしてくれます。
 さて、私たちはさらに非意図的想起について考察していきたいと思いますが、ここで一旦、項を改めます。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)