<15-4G>虐待の理由(7)

<15-4G> 虐待の理由(7) 

 クライアントDの状況で見てきたことは、他の対象クライアントたちにも、程度の差はあれ、確認できることであります。
 クライアントGの母親は自分が断念したダンサーの夢をGに託します。しかし、ダンサーになるのは本来母親でした。Gは一方ではダンサーになることが望まれ、他方ではダンサーになることが禁じられるのです。母を乗り越えることが推奨され、同時に、母を超えてはいけないという禁止が与えられるのです。

 他のケースでは、この辺りの事情がさらに曖昧になっています。これを比喩で述べると以下のような状況があるわけです。
 彼が右へ行くと、彼は右へ行くな、左へ行けと言われます。
 右が禁止されたので、彼は左へ行きます。すると、左へ行くなと言われます。
 右にも左にも行けないので立ち止まっていると、立ち止まるなと言われます。
 それで前に進むと、前に進むなと言われます。
 後ろに下がると、後ろに下がるなと言われます。
 動けないので止まっていると、止まるなと言われます。
 そのような状況があるわけです。何かが推奨され、何かが同時に禁じられるのです。推奨と禁止は相容れず、相互に矛盾するのであります。そして、その都度、暴力がそこに付随しているのであります。
 私が思うに、この状況を打破する方法が二つあります。一つは常に右に行くことです。
 右へ行くなと言われても右へ行き、左へ行けと言われても右へ行くのです。止まるなと言われたら右へ行き、止まれと言われたら右へ行くのです。前に進むなと言われたら右へ行き、後ろへ下がるなと言われても右へ行き、止まるなと言われると右へ行くのです。相手に対して常に一貫するわけであります。相手が出してくる矛盾、推奨と禁止の矛盾に対して、こちらは矛盾なく反応するというわけであります。
 もう一つの方法は全く無関係のことをするということです。
 右へ行くなと言われたら踊りだし、左へ行くなと言われたら歌いだすのです。止まるなと言われたら眠り、止まれと言われたら服を着替えるのです。前に進むなと言われたら食事をし、後ろへ進むなと言われたら風呂に入り、再び止まるなと言われたら(なんでもいいのですが)ゲームをするでもいいのです。なんでもいいので、相手の文脈に乗らないというわけであります。

 しかし、被虐待者はそれができないのであります。虐待者が親であったりして、虐待者に従わなければならない関係性があるので、彼は虐待者の動揺に適合しなければならなくなるのです。この揺れ動きに適合することによって、彼は一貫した自己を持つことが困難になります。

 サバイバーたちは虐待者との関係において、何者になることもできず、一貫した自己を持つことが困難な状況に追い込まれることになります。同じことは虐待者側にも言えることなのだと思います。虐待者もまた一貫した自己を経験していないのだと私は思います(私は、人間関係の諸問題は双方で同種の、あるいは類似の現象が生じていることが多いと考えています)。
 しかし、被虐待者が一貫した自己を経験できる場があります。それが虐待場面であります。虐待場面では、自分は自分であってはならず、また他の誰かであってもならない立場に彼は置かれます。一貫した自分を持つことができないのです。しかし、暴力を振るわれている自分は、常に一貫して経験されているのです。Dがキリストになれと暴力を振るわれている時であれ、被差別人種だと言われて暴力を振るわれている時であれ、一貫しているのは、暴力を受けている自分であります。これだけは、被虐待者の中では確かなアイデンティティになる(ないしはアイデンティティ感覚につながる)のだと私は思うのです。
 おそらく、同じことは虐待者側にも言えることであると思います。相手に暴力を振るっている時にはさまざまな自分を経験しているといても、相手に暴力を振るう自分だけは紛れもなく一貫して経験できているのではないかと私は思うのです。
 もし、虐待が一貫した自己を経験できる場になるとすれば、暴力や虐待は自己を確認する一つの手段となり得るのです。そこだけが確かな自分を経験できる場となっていれば尚更そうであると私は考えています。そして、同じことが虐待者側にも言えるように私は思うのです。
 従って、虐待者も被虐待者も、もし、自分が不確かになったりすると、虐待を求める(おかしな表現ですが)ようになると私は考えています。それだけが確かな自分を経験できるのであれば、そうなってもおかしくない話であるように思うのです。
 もし、虐待者が自分を不確かな存在に感じ、自分がはっきりしなくなっていると、この人は虐待を通して自己を確認するようになるでしょう。それは被虐待者の場合もそうではないかと思います。
 被虐待者が虐待を通して自分を確かめるというのは、不思議に聞こえるかもしれませんが、それに関しては後々述べていくことになると思います。
 そして、もし、虐待者が存在しないなら、サバイバーたちは虐待者をこしらえるのです。虐待のない関係に虐待を持ち込んでしまうのであります。この辺りのことは「暴力メガネ」のところで再度取り上げることにします。
 クライアントBにはそういう傾向があったように思うのです。彼女は安定した状態が続いているかと思うと、人間関係で衝突を起こすのです。彼女はその人間関係に暴力を持ち込んでしまうのです。私の印象では、安定している自分(正確に言えば、安定した関係に身を置いている自分)にBは落ち着かなくなってくるようでありました。それは私との関係だけではなく、むしろ彼女の友人・知人との関係でよく見られたように思います。
 クライアントCは、特に状態の悪い時にほど、自ら暴力的な環境を作ってしまうのでした。本来、そこには何の暴力もなかった場面であるのに、そこに暴力を持ち込んでしまうのでした。
 クライアントEは、決して暴力的な人ではなかったのですが、周囲の人に暴力を見て取ることがあったかもしれません。彼は自分を一切閉ざすことでいかなる関係をも回避しているかのようでありました。彼は、悪い関係を通して自分を確かにすることよりも、自分が不確かなまま独り閉じこもる方を選ぶようでありました。
 クライアントFは、暴力的な父から逃れたのに、その後の人間関係において、やはり暴力的な人と縁ができてしまうのでした。無意識的に彼女がそれを求めていた可能性も考えられるように私は思うのです。
 クライアントGは、Eのように自分に閉じこもる傾向があり、そのために周囲と衝突するということは少なかったようであります。しかし、周囲に暴力的な人(もしくはそのようなイメージを喚起する人)がいると、関係は築かなくとも、その人物のことが気になってしまうようでありました。その人を気にしている時にだけ、彼女はよりはっきりした自分を経験していたかもしれません。

 本項の考察において特に重要なのは以下の概念であります。
 虐待場面が、虐待者と被虐待者の双方にとってアイデンティティを補完し合う場となり、自分を明確にできる唯一の場となるのであれば、彼らは自らそれを望むようになり、自らそういう場を形成しようとする方向に動いてしまうということであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月19日公開