<15-4F>虐待の理由(6)

<15-4F> 虐待の理由(6)

 前項では複雑な記述を含んでしまいました。私にとっては言語的に説明するのが難しい部分であり、上手く伝えられる確信も得られないまま綴っています。難渋な点があれば遺憾に思います。<15-4補遺>にてより具体的な説明を加えていくことにして、私たちは考察を先に進めていくことにします。

 ここでクライアントDの状況に目を転じてみましょう。
 不謹慎な言葉でありますが、私はDの母親が精神病であればよかったのにとも思ってしまうのです(この感情こそ私とDとの関係の一面を如実に物語っていて、これは要するに、Dに対して過度の感情移入を私がしてしまっていることの証であり、私の逆転移であります)。
 母親はDにキリストになれといっては暴力を振るいます。この言葉の真意は「そうすれば私は聖母マリアである」という確信が得られるということ、加えてそうなれば自分が救われるという感情ではないかと私は考えています(さらに付加すれば、子供がキリストであれば、まさか私に反抗したりはしないだろうといった期待も母親の感情に含まれているかもしれません)。しかしながら、このことは、母親は聖母マリアのような存在になりたいと欲していながら、自分が聖母マリアではないということがどこかで分かっているということを示しています。同じように、わが子がキリストではないということもこの母親はどこかで分かっているはずであります。
 もし、母親が自分は聖母マリアであって、他の何者でもないと信じていれば、子供はキリストになるのです。そして、Dがキリストであれば、ここで双方のアイデンティティが補完され合って、完結するのです。双方の関係において一つの安定が得られるのです。ただし、この場合、二人とも誇大妄想であると評価されることになりますが、それでも妄想上では双方のアイデンティティが獲得されていることになります。
 しかし、母親は精神病ではないし、そこまで精神病的になれないので、自分があるわけです。自分が聖母マリアではないこと、子供もキリストではないことが分かっているのです。このことが分かっているがために、自分は聖母マリアにならなければならず、子供はキリストにならなければならないのです。
 母親はこういうことを言っているに等しいのです。「私は聖母マリアのようでありたいが、私は聖母マリアではないことがわかっている。だから、私はお前がお前ではなくキリストであってほしい。そすれば私は聖母マリアになれる。でも、私はお前がキリストではないことがよく分かっているからお前であってほしい」と。さらに付加すると、「お前がキリストでないことは残念であり、お前がキリストでないが故に私は不幸だ」といった感情もそこには含まれているかもしれません。
 これがつまり、「あなたはあたなであってはならず、同時に、あなたであらねばならない」というメッセージであるわけです。母親は自分の不幸の源泉がDにあると言っていることになるので、Dにはこのメッセージは相当なプレッシャーとなると私は思うのですが、それだけに、Dはこのメッセージに応じなければならないといった義務感を覚えるかもしれません。
 そうして、これを受け取るDは、自分はキリストでなくていいと思うと同時に、キリストでなければならないという感情に襲われるのです。自分であってはならず、自分以外であってもならないわけです。彼がこのジレンマから逃れるためには、自分の一部は自分自身のままであり、他の一部はキリストであるとしなければならなくなるわけです。一部は自分自身に、他の一部は母が押し付けているものに自分を同化させていくことになるのです。これが、つまり、人格が分裂しているということになるわけでありますが、自分である一部分とキリストである一部分とが、結合や統合されることなく、分断された状態のまま彼の中に存続することになるのです。分裂するのは一方が他方の否定の上に成立しているからであります。DがD自身であれば、Dはキリストではなく、Dがキリストであれば、DはD自身ではない、そういう関係が成立しているので、両者がつながることはないのです。
 両者がつながる、つまり、DはD自身であり、そのD自身がキリストである、という関係であれば、彼はそれほど苦しまなくなるのですが、この関係成立は精神病とみなされることになるのです。
 
 さて、もし、Dが母親の分裂を引き継いで、自分の一部は自分自身であり、他の一部はキリストであるという、そういう自己を経験しているとすれば、どういうことが起きるでしょうか。
 「あなたはあなたのままでいい」、などといった働きかけは、Dには不安を喚起するものになるでしょう。その働きかけが彼の中で禁じられている一部分に触れてしまうからです。しかし、「あなたはキリストだ」と言われることも彼にとっては苦しいことであるはずです。これもまた彼の中で禁じられている部分を刺激するものであるからです。
 こうして彼に関するあらゆる肯定も否定も彼を苦しめるのであります。いかなる言葉がけも彼を苦しめることにつながるのです。どんな言葉も自分を苦しめるということであれば、彼は一切の言葉から身を引かなければならなくなるでしょう。自分自身に閉じこもるしかなくなるわけであります。彼は自分の世界、自分の言語世界に生きなければならなくなるのです。Dの場合、そこまで極端なところまでは行きついていなかったのですが、その傾向は十分認められるように私は思うのです(例えばDのスター幻想など)。彼は外部の世界や人との疎通性を失っていくのであります。限られた領域(彼自身やキリスト以外、つまり彼のアイデンティティにいささかも関係しない領域)でしか交流できなくなるのであります。

 さらにクライアントDはキリスト以外の属性を付与されています。例えば、被差別国における被差別人種であるとも彼は言われています。キリストのような至高な存在から差別を受ける存在にまで貶められるわけであります。彼はそれにも適合するわけであります。
 彼は彼であってはならず、キリストでなければならず、キリストであってはならず、被差別人種でなければならず、被差別人種であってはならず、そして彼自身であらねばならないわけです。
 彼がキリストであるか、被差別人種であるかは、その時々の母親の状態が決めることであって、彼はそれに対して無力であります。母親が押し付けてくるものに対して、彼はその都度自分を適合させていかなければならなくなるわけであります。
 母親もまた自分自身を頂点から底辺まで行き来させてしまうようです。ある時には聖母マリアであり、ある時は被差別人種の母親であるのです。母親自身の自己が定まらないのです。母親の遭遇する状況によって、母親は尊敬される人間から差別される人間まで揺れ動くのだと私は思います。
 この揺れ動きに、ある意味では、Dが巻き込まれているということではないかと私は思うのです。母親の自己不確実感が先にあって、母親はDを補助自我にすることによって、この不確実感を処理しようとする、そのように私には思えるのですが、結果的に、この自己不確実感はDに伝わることになります。本来は母親に属していた不確実感が、やがて、彼の中に内在化し、彼の不確実感となっていくのであります。
 ここではクライアントDを取り上げていますが、サバイバーたちには、多かれ少なかれ、そういう種類の自己不確実感があると私は見立てています。自分の中に内在化している不確実感でもって、今度は他者と関係を築くのであります。良好な関係を築こうとして、サバイバーに適合すると、関係する他者もまたサバイバーとの関係で苦しい経験をしてしまうことになるのです。
 サバイバーたちの人間関係については、別に取り上げるので、ここでは詳述を控えるのですが、彼らは人間関係で衝突することも稀ではありません。それは虐待者との関係で身につけたもので他者と関係を築くためにそうなってしまうものであると私は考えています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
 

2019年9月19日公開