<15-4E>虐待の理由(5)

<15-4E> 虐待の理由(5)

(あなたであってはならず、あなたであらねばならない)
 サバイバーたち、あるいは被虐待者たちが、虐待者から受け取るメッセージを敢えて言葉にすれば、「あなたはあなたであってはならず、同時に、あなたであらねばならない」というものになるのではないかと私は思います。
 個人は自分自身であることを禁じられ、同時に、自分以外の何者かになることが禁じられるのです。自分自身に戻ろうとすると最初の否定によって禁じられ、自分を放棄することが次の否定によって禁じられるわけです。
 このメッセージは、多かれ少なかれ、サバイバーたちが受け取ったきたものであると私は考えています。クライアントDは厳密に言えばサバイバーとは言えないのですが、Dではこのメッセージが分かりやすいので対象クライアントに選んでいます。他のクライアントたちの場合、このメッセージは表面には現れず、通奏低音のように響いてくるものであったりします。
 クライアントAやBにおいては、このメッセージはそれほど明確にはなされないのですが、それでも、彼女たちはこの種の経験をしてきたと私は考えています。解離的な症状の存在はその体験を重ねてきたことを伺わせるのであります。
 もし、「あなたはあなたであってはいけない」という単独のメッセージであれば、受け手は「自分自身である」(メッセージに対抗する)か、「自分自身ではない」かメッセージに順応する)かの二分で応じることが可能であります。どちらかを選べば、少なくともこのメッセージによってもたらされる苦痛は軽減できるのであります。
 しかし、もう一つの禁止があるので事態が複雑になるのです。個人は、「自分自身である」か、「自分以外である」か、この選択肢では対応できなくなるのです。それに加えて、「部分的に他者である自分自身になる(自分により近い他者)」か、「部分的に自分である他者になる(他者により近い自分)」か、という微妙な選択肢を取らなければならなくなるのです。と言うのは、両方のメッセージを同時に完全に満たすことは不可能であるためであり、妥協案を取らざるを得なくなるからであります。
 虐待者もまたこの種の分裂を起こしているとなれば、この選択肢はさらに複雑な様相を帯びることになります。サバイバーが選択する「自己」が、虐待者自身であるのか、虐待者が部分的に担っている他者であるのか、まったくの他者であるかによって、違ってくるからです。
 従って、「虐待者自身に基づく他者を一部とする自分自身になる」か、「虐待者が部分的に有している他者に基づく他者を一部とする自分自身になる」かという選択肢群があります。同じように、「部分的に自分であって虐待者自身に基づく他者を大部分とする他者になる」か、「部分的に自分であって虐待者が有する他者に基づく他者を大部分とする他者になる」かなどといった選択肢群が生まれることになります。
 この他者が複数ある場合には、事態は一層複雑になるわけであります。煩雑になるので詳述はしませんが、虐待者が部分的にに有している他者がXYZとあれば、サバイバーが部分的に他者である自分自身になる場合でも、それはXに基づく他者である場合もあれば、Yに基づく場合もあり、Zに基づく場合もあるということになるわけです。
 今の話はおそらく理解しづらいだろうと思いますので、本節の<補遺>にてもう少し説明したいと思います。

(補完的アイデンティティの未完)
 このようなメッセージをサバイバーたちは虐待場面を通して受け取っていると私は仮定しています。このメッセージに従う(正確に言えば、強制される)限り、受け取り手が自分自身を確立することは不可能であります。自分自身の位置が確保できないからであります。
 ところで、アイデンティティにはさまざまな側面があります。その中には個人一人では達成できないアイデンティティというものがあります。つまり、アイデンティティの確立には他者が不可欠になる場合があるのです。役割アイデンティティなどがその典型であると思います。
 例えば、私がカウンセラーであるというアイデンティティを持つ場合、そこにはクライアントの存在を必要とするのです。クライアントが一人もいないのであれば、それは「自称」カウンセラーと言っているに過ぎないのであります。クライアントの存在が、私のカウンセラーというアイデンティティを確立してくれているのであり、かつ、そのアイデンティティを確固とし、維持してくれているのであります。つまり、クライアントはカウンセラーという私のアイデンティティを補完してくれているわけであります。
 人間関係を介在にして得られるアイデンティティはすべて補完的であります。ある男性が夫という場合には妻の存在がなければならないのです。妻の存在があって彼は夫という地位を得、そのアイデンティティを得るのです。
 親子も然りであります。ある人が親というアイデンティティを獲得するためには子供がいなければならないのです。その子供が今は会えなくなっているとか、あるいは、過去に存在した子供であったとしても、その子供の存在がその人の親というアイデンティティを形成しているのであります。子供も同様であります。親の存在があって、初めて、その親の子供というアイデンティティを持つわけであります。
 アイデンティティはお互いに補完し合っている部分があるわけであります。この補完性が完結している時には、お互いの間で問題が生まれることはないように私は思います。
 仮に、私があなたのカウンセラーであるとすれば、それは私のアイデンティティになります。あなたも私のクライアントであるというアイデンティティを一つ得ることになります。この補完性が完結している、つまり、ズレることなく一致してまとまっている限り、お互いの間で問題が発生することはないのです。
 しかし、私があなたのカウンセラーであって、同時に、あなたのカウンセラーではないとすれば、私はひどく苦しい経験をすることになります。あなたのカウンセラーであるという私の地位が脅かされることになります。あなたの側でも、私があなたのカウンセラーであると同時に、あなたのカウンセラー以外の何者かになると、あなたは苦しい経験をすることになると思います。
 関係を維持するとは、この補完性の完結を維持することであるとも考えることができます。クライアントBはその維持が困難であったように思います。私は彼女のカウンセラーでした、彼女は私のクライアントでした、この関係が維持できている限り、彼女は安定した関係を築けるのであります。しかし、私がカウンセラーではなく他の何かになった時に、あるいは彼女が私のクライアントではなく他の何かになった時に、彼女は苦しむのであります。同じように、私も苦しむのであります。双方のアイデンティティがここで脅かされることになるわけです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月15日公開