<15-4D>虐待の理由(4)

<15-4D> 虐待の理由(4)

 サバイバーたちの抱える問題の一つは、自分自身の諸傾向と暴力とが結合しているところにあると私は考えています。この結合は、虐待者の理屈に基づいているものでありますが、サバイバーの心の中で結合しているものであります。つまり、それは虐待者側の理屈をサバイバーは取り入れており、それを内面化しているということになるのです。
 すでに述べてきたように、虐待者側が自称する理由は信憑性が低いと私は考えています。それでもサバイバーはその理由を信じており、それを信じている限り自身と暴力とは切り離すことができなくなっているように私は感じております。
 虐待者の自称する虐待の理由に一貫性があれば、サバイバーも対処しやすかったことだろうと思います。クライアントCは自分が何かを所有した時に兄から暴力を受けたので、彼は何も所有しないという対策を立てることによって、暴力から身を守ろうとしてきたようであります。
 クライアントFも、父が飲酒して酩酊している時に暴力が発生しやすかったので、父親が飲酒している時にだけ用心すればよかったのでした。
 しかし、虐待に一貫性を欠いている場合、被虐待者は用心しようがなくなるわけであります。それどころか、いつ何時それが起きるか分からない状況で怯え続けなければならなくなるのです。クライアントBはそのような怯え続けた経験を語りました。
 私はここでクライアントDを例にしようと思います。
 Dは母親からの虐待を受けていました。彼が悪いことをしても、あるいはいいことをしても、それぞれ虐待の理由になるのでした。Dが言うところでは母親は嫉妬深く、彼が優れているとそれに嫉妬して、それで暴力が生まれると言います。
 母親はDにどんなことを言っているでしょう。ある時には、母親はDに救世主になれということを言います。これは要するに私(母親)を救う人間になれと要求していることであります。母親はDにキリストのようになれと求めます。
 また、ある時には、Dを外国人(被差別人種)であると言って、母親は非難します。
 また、ある時には、母親が苦手な家事をしている時に文句を言って、Dを拒絶し、あるいはDに当たり散らします。
 また、ある時には、Dに有名人になれと言って、Dの才能や能力を辛辣にあげつらいます。
 また、ある時には、Dが友達と遊んだということだけで、Dを叱責します。Dによると、母親は友達が少なく、あまり友達と遊んだ経験がないので、それで嫉妬しているということであります。
 この母親に何が起きているのか、母親が何をしているのか、お読みのあなたには、分かるでしょうか。
 まず、母親はDにキリストになれということを言います。もし息子がキリストであれば、母親である自分は聖母マリアになれるということではないでしょうか。つまり、自分はそれだけ偉大な女性であるということの証拠になるということではないでしょうか。自分がそういう人間であれば、自分は救われると感じているのかもしれませんが、その達成は子供がキリストになることによってなされるものであります。この時、母親は自分がそれだけ偉大でも何でもない卑小な自分を経験しているのではないでしょうか。
 次に、Dは被差別国の被差別人種であると言って母親は非難します。しかし、子供がそうであるなら、その母親も被差別国の被差別人種であるはずであります。そうすると、母親が言うのは、自分は差別を受けている人間であるということではないでしょうか。母親は自分がそういう人間であると言う代わりに、子供がそういう人間であると言っていることになります。
 次に、母親が苦手な家事をしている時に、母親はなんでこんなことをしなければならないのかなどと文句を言います。これは自分は母親になりたくないということであるかもしれませんし、子供がいなければ自分はこんなことをしなくて済んだのにといった恨み言であるかもしれません。自分が母親であることを拒絶したいのだけど、子供の存在を拒絶することで間接的にそれを表明しているのではないでしょうか。
 Dには芸術的な才能があるそうです。私にはよく分からないのですが、周囲の人もDの才能を認めているそうです。母親はその才能を使って有名人になれなどとDに求めます。有名人の母親ということになれば世間の尊敬も得られると考えているのかもしれませんし、息子が有名人になれば生活の苦労から解放されるなどと考えているのかもしれません。いずれにしても、母親にとって利点はあるのでしょう。しかし、息子は有名人ではありませんでした。母親はその事実を見たくないのかもしれません。
 また、Dが友達と遊んだということで、母親の怒りを買っています。母親はそういうことができなかったそうです。母親は友達のいなかった子供時代を思い出しているのかもしれません。自分の孤独に向き合えずにいるので、そういう孤独を経験していない息子が腹立たしかったのかもしれませんし、息子にも同じように孤独を経験してほしい(自分と同じであってほしい)という気持ちが働いていたかもしれません。
 ここには、基本的に、卑小で、無力で、孤独な母親の姿を見る思いが私にはするのですが、母親はそれをDを通して経験しているのかもしれません。ある時には、聖母マリアであると同時に聖母マリアではなく、ある時には被差別人種の母親でありながらそうではなく(息子がそうであるということ)、ある時には家事から解放された母親であることを望みながら(子供がいるために)それから解放されていない母親であり、ある時には有名人の母親として尊敬される母親でありながらそうではなく、ある時には友達のたくさんいる子供の母親でありながら同時に友達のいない娘であります。
 もし、虐待の原因とか理由とかがあるとすれば、これであります。母親の分裂であります。母親が一貫した自分を持っていないのです。その時々で、聖母マリアであり、被差別人種であり、有名人の母親であり、家事に追われる母親であり、友達のいない娘であったりしているのです。
 Dはそのそれぞれの母親に対応するのです。母の分裂に自分を適合させてしまうのです。そうして、D自身が一貫性を持てないまま、分裂したような状態になっているのだと私は思います。
 しかし、その元をたどれば、母親の分裂なのであります。その母親の分裂にに適合するので、彼自身も一貫性が持てなくなるのです。

 ここで少し余談を。仮に虐待者たちが分裂していて、それに適合することでサバイバーもまた分裂しているとしましょう。今度はそのサバイバーにカウンセラーが適合していくことになるのです。カウンセラーもまた自分が分断されるような経験をしてしまうのであります。
 クライアントDの時には、私もかなり用心していたのでしたが、クライアントAやクライアントBではかなり苦しい経験をしました。クライアントBと電話で話した後、本当に窓から飛び降りたくなる衝動に駆られたのを覚えています。クライアントAにはぶちギレましたし、このAという人も方々のカウンセラーや医師に通っていたのでしたが、診療拒否された経験もあるとのことです。診療する方もかなり苦しんだのではないかと思います。
 クライアントCは、一度ならず、カウンセリングの中止をこちらから持ち掛けたこともあります。やはり面接していくのが苦しくなってくるのであります。
 クライアントEとは比較的穏やかに過ごしたのですが、時に面接に身が入らないということも私は経験しました。どこかで自分を防衛していたのだと思います。
 クライアントFとGに対してもそれほど激しい感情を掻き立てられることはなかったのですが、時に、彼女たちの面接を苦痛に感じることがありました。どこかで距離を置いてしまっている自分に気づくということもありました。
 特に、クライアントAやBとの経験でそれが顕著だったのですが、私は私であってはならず、私でなければならないという変な感覚を経験したのです。それは私自身が分裂してしまうことを意味しているのですが、この分裂は彼女たちがすでに経験している虐待者たちの分裂であるということにはなかなか気づけませんでした。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月15日公開