<15-4C>虐待の理由(3)

<15-4C> 虐待の理由(3)

(虐待者の理屈)
 自己中心的な思考は物事を自分に関連づけることになります。加えて、虐待者が虐待をサバイバーに関連づけるような理由を伝えます。サバイバーたちはその理由を疑うことなく信じています。
 サバイバーは、自分の受ける虐待は、自分の何かのためであると信じてしまうのです。虐待を受けることの原因が自分にあるという認識に至るのです。しかし、これは虐待者の理屈なのであります。この思考は虐待者に属していたものであり、サバイバーの側には存在していなかった考えであります。そこをまず押さえておきたいと思うのです。
 サバイバーたちは、虐待者の理屈を信じているのです。彼らが虐待者から離れていても、その理屈を信じ続けているのです。これが虐待者側の理屈であるために、つまり、もともとはサバイバーに属していなかった理屈であるために、後に述べるように、この理屈はサバイバー個人から分離しなければならないのであります。

(価値と暴力の同一化)
 さて、虐待者が自ら言う虐待の理由に話を戻しましょう。これには3パターンを認めることができると私は述べました。いずれのパターンであっても、暴力はサバイバー個人と関連づけられることになります。
 最初のパターンでは、自分が何か悪いことをしたために暴力を受けるのであるというように、サバイバーは関連づけることになるのです。最後のパターンでは、自分がたまたまその場にいたために暴力を受けたのであるなどといった関連づけをすることになるのです。
 ここで問題になるのは二つ目のパターンであります。サバイバーが何か望ましいことをした時などに発生する暴力であります。特に、サバイバーが価値を置いている領域のことが暴力の理由にされてしまう時であります。
 クライアントAは、可愛らしい女の子でみんなにチヤホヤされる人気者であり、それが暴力の原因とされていました。人からそれだけ好かれることに、父親は激しく嫉妬したとのことでした。
 クライアントDは芸術的才能などの故に暴力を受けました。彼が優秀であるということが、母親には気に入らなかったのでしょうか、その故に暴力を振るわれることがあったということであります。
 クライアントGはダンスが好きでしたが、同時に、母親が叶えることのできなかったバレエ・ダンサーの夢を託されていました。そしてGがダンスなどで上達すると母親は激怒したのでした。
 他にも、クライアントCは、彼が所有しているものに対して兄からの暴力を受けています。これらの例においてはは、サバイバーたちが価値を置いている事柄に対して、暴力の理由付けがなされているのであります。
 こうしてサバイバーが重視している価値とサバイバーの受ける暴力とが結合するのであります。つまり、自分にこれこれの価値があるから自分は暴力を受けてしまうのだという認識に至るのであります。そして、自分のその価値を維持するためには、自分は暴力にさらされ続けなければならないという矛盾に直面してしまうのです。暴力を受けるほど、自分の価値が確認できるといった逆説的な事態が生まれるわけであります。
 こうした認識は誇大的な被害妄想に見られるパターンであります。自分はそれだけの迫害を受けるだけの価値がある人間であると信じてしまうのです。それに等しい状態が出来上がるわけであります。
 繰り返しますが、自分にとって価値あるもの、望ましいもののために暴力が発生するという認識は、当然、これは虐待者側の理屈であります。サバイバー本人には存在していなかった思考であり認識であるのです。
 
(不明瞭には耐えられない)
 サバイバーたちは、後々まで、虐待者が自称する理由を信じています。それを信じることによって、虐待の経験が意味づけられるので、その経験に耐えやすくなるのでしょう。しかし、それは虐待者側の理屈であるので、彼らはそれを信じることで虐待者の理屈に自分自身を適合させていくことになります。
 もし、私がその結合、つまり虐待や暴力行為と被虐待者個人との結合、を分離させようと試みると、それはサバイバーたちを限りなく不安にさせるのであります。それは自分の受けた暴力に意味がなくなってしまうことを表わしているからです。そこには理由もなく、意味もなく、暴力は彼個人とは無関係になされた行為であるということになり、それはサバイバーにとっては耐えがたい認識になるようであります。
 もし、そうであれば、あの暴力は何だったのかと、過去経験がすべて不明瞭になってしまうのです。この不明瞭さに彼らは耐えられないのだと私は思うのです。だから、何もなくなるより、悪いものでも在る方が良く、虐待者の理屈を保持し続けることになるのだと私は思うのです(もっともこれはそのいくつかの理由のうちの一つでありますが)。
 その代わり、彼は虐待者の理屈の中で生きなければならず、そうして彼は暴力の世界に留まることになるのです。なぜなら、暴力と自分自身がどこまでも関係づけられていくからであります。彼の周囲にはいつでも暴力があることになるのです。彼は暴力の世界に生きることになってしまうのですが、その点は第5節で取り上げることにします。

(一貫性の問題)
 また、虐待の理由は多岐にわたることもあります。3パターンすべてを言われているような人もあると私は思うのです。つまり、虐待の理由がその都度違うといった経験をしているサバイバーもいただろうと思います。
 ある時はこういう理由で、別の時にはああいう理由で暴力を受けるのです。もし、そういう経験をすると、受け手にとってはその理由が混乱してくるのではないかと思うのです。一体、自分はどういう理由で暴力を受けたのか、余計に分からなくなるといったことも生じるのではないかと思います。
 次項で少し詳しく見たいと思うのですが、クライアントDにはそれが顕著でありました。クライアントFにも、そこまで顕著ではなくとも、確認できるように思います。あと、はっきりしない部分も多いのですが、クライアントBもそれを経験してきた節があるように思います。
 これはどういうことであるかと言えば、自分に価値があるから暴力を受ける時もあれば、自分に価値がないから暴力を受ける時もある、ということであります。ある時にはプラスのことが暴力の理由であり、また、ある時にはマイナスのことが暴力の理由にもなるわけです。受ける暴力に一貫性がなくなるのであります。
 ここにも、実は、虐待者が自称する理由が私には信じられないということの要因があるのです。虐待者が虐待行為をするとき、虐待者がそれほど一貫しているのかどうかが疑問なのであります。一貫した主義なり思想なり態度なりを有しているのかどうかということであります。
 もし、一貫した主義とか思想とか、そういうものを欠いているとすれば、その虐待は「気まぐれ」でなされる率が高くなるわけです。その時の気分などに安易に影響されてしまうということであります。気分によって(言葉は悪いのですが)、プラスのことで暴力を振るったり、マイナスのことで暴力を振るったりしていることだって考えられるわけであります。そして、被虐待者側はその都度の理由を信じてしまっているということになるわけであります。

(本項まとめ)
 内容が多岐にわたりましたので、本項をまとめておきます。
 虐待者が自称している虐待の理由は、虐待者側に属する理屈であり、被虐待者に属するものではありません。
 被虐待者がその理屈を信じることによって、彼は虐待者(の理屈や認識)に適合していくことになります。
 自分に価値があるから暴力を振るわれるといった認識も、この適合によるものであります。
 暴力の理由が一貫しない場合、その都度の理屈に被虐待者は適合していくことになるので、混乱してしまうこともあるでしょう。
 それでも被虐待者は虐待者の自称する理由を信じなければならないのです。それは虐待者だけが理由を知っているはずであると見なされているためでもありましょう。しかし、理由が何もなかったという認識の方がサバイバーを苦しめるためであると、そのように考えてきました。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月15日公開