<15-4B>虐待の理由(2)

<15-4B> 虐待の理由(2)

(自我の統制力)
 虐待者の虐待行為が意図的な行為であるか、非意図的な反射的行為であるか、そこを判断しようと思えば、行為者の自我に着目するのが良いと私は考えています。その人の自我による統制力がどの程度保たれているかを判断材料にすると良いと思うのです。
 私たちがある行為を意図するとします。その行為を遂行するための計画を立て、自分を行為に方向づけ、目的に達するまでその行為を維持します。これらは、いわゆる「意志」の働きということになるのですが、意志を働かせることができるのは、その人の自我が機能しているからであります。
 自我統制力とは、分かりやすく言えば、その人を律する働きであります(もちろんそれは自我統制力という働きの一つであります)。ある行為を開始から終了まで、自己を律する力であると考えるといいでしょう。自我統制力がしっかりしていると、自分を速やかに行為に方向づけ、感情や衝動に妨害されることなく、また、わき道にそれることなく、最後まで行為を遂行するでしょう。
 自我統制力が弱まった場合、つまり、ここでの文脈に従えば、それは意志が弱くなってしまうということになるのですが、その場合、自分を方向づけたり、意図的な行為をしたりすることが困難になるのです。代わりに、感情や衝動によって動かされる度合いが高くなるのです。自分を統制する力が弱くなるので、感情や衝動に流されやすくなるというわけであります。
 感情や衝動に流されるようになるということは、自我の高次機能が失われて、より低次な機能が優位になっているということを表わしています。ちなみに、行動化という現象は、言語化よりも低次であります。言語化するというのは、かなり高次機能を要する行為なのであります。
 前項で、虐待者が言語化できるなら、虐待場面で、暴力行為ではなく、言語的な活動がもっと見られるはずであるという見解を私は示しました。暴力行為が生まれる、つまり行動化が生まれるということは、当人が言語化できない状態にあると仮定するなら、これはすでに自我の統制力が弱まっていて、低次機能が優位になっていることを示しているものであると考えられるのです。
 また、自我統制力が弱化しているとすれば、その行為は行為者自らが抑制することが困難であるはずです。つまり、自分でも止められないという状態になっているのです。従って、それは感情や衝動が鎮まるまで延々と続けられることになります。そのような虐待場面もけっこうあるように私には思われるのです。一発殴って終わり、というふうにはならず、延々と続くのです。
 さらに、自我統制力が弱まっているとすれば、行為者の言葉(その最中に言葉が発せられているとすれば)は、かなり曖昧であったり、支離滅裂であったりしていると思われるのです。一貫した発言がなされないのです。そして、感情や衝動がより色彩を加えているので、しばしば、そういう時の言葉は「妄想的」な様相(現実性が低いということであります)を帯びるのであります。サバイバーは、虐待者の言葉がだんだん分からなくなってしまうといった経験を持っていることもあるようです。彼は自分が混乱していると思い込むのですが、混乱したものを与えられているためであるかもしれません。
 長々と綴ってきましたが、虐待者が虐待の理由として言語化しているものは当てにならないということを私なりに考察してきました。それは自我統制力が弱まった状態でなされており、虐待行為は反射的行為であると私たちは見てきました。それが反射的行為である以上、また、虐待者の自我統制力が弱化している以上、その行為に明確な理由は存在していないかもしれないのです。

(虐待の意味づけ)
 しかし、サバイバーたちは、虐待者が自称する理由をそのまま無条件に信じているのです。これは対象クライアント7人全員に見られた傾向であります。
 そこで私が「その理由は信用できない」とか、「理由なんてもともとなかったかもしれない」などと言うと、激しく反発する人もあります。クライアントA、Bなどは、「なんてひどいことを言うんですか」などと、けっこう激しく言い返したものでした。クライアントDは、それを受け入れることができず、カウンセリングから去って行ったのでした。クライアントCとG(比較的外界に適応できている二人です)は、最初こそ反発はしたものの、後にはある程度までこれを認めることができたのでした。 
 実は私は今ここでものすごく厳しいことを言っているのです。彼らは自分でも受け入れがたい暴力を受けてきました。この暴力に何らかの意味がないと、彼らはそれに耐える意味を失うのです。何か意味とか理由があるから自分はこういう仕打ちを受けるのであると、それを信じないと、暴力は彼にとっては一層耐えがたい経験となってしまうのです。
 彼らは虐待者の言う理由を信じています。それしか暴力の意味を知る拠り所がないからなのでしょう。他の可能性は考えられないし、ましてや、その暴力には意味も理由もないなんて考えは到底受け入れられないのです。

(自己中心的思考)
 虐待者たちが虐待の理由を告げ、サバイバーはそれを信じます。これによって暴力行為とサバイバー自身とが結合することになるのです。この結合を述べる前に、もう一つ付け加えておくことがあります。それは「自己中心的思考」であります。
 自己中心的というのは、子供の思考様式として言われているもので、子供は思考する際に自分の立場や視点から離れることができないというものです。これを別の観点で言えば、子供は物事を自分に関連づけて思考するということにつながります(補注)。
 例えば、ある子が楽しみしていた遠足が雨のために中止になったという場面があるとしましょう。降雨は自然現象なので、この雨はこの子とは何の因果関係もないのです。でも、この子は自分が昨日悪いことをしたから、今日雨が降って、楽しみにしていた遠足が中止になるという罰を受けたんだなどと解釈したりするのです。本来、自分とは無関係であるはずの現象を自分自身の何かに関連させてしまうのであります。これは自己中心的な思考であると言えるわけであります。
 サバイバーたち、並びに被虐待者たちはしばしばこの種の思考をするのです。何か望ましくないことが起きた時、その出来事と自分自身とを関係づけてしまうのです。自己中心的思考は大人になるにつれて減少していく(思考の様式が変わるため)のですが、その段階の思考に留まってしまうこともあれば、その思考の名残が顔を出してしまうことも人は経験するのであります。
 少し極端な話ですが、虐待が人生の早期に発生していればいるほど、自己中心的思考が名残をとどめているという印象を私は受けています。クライアントDは比較的この傾向が顕著でした。その他、クライアントFにもその傾向を認めることができるように思います。悪いことが起きた時、彼らは虐待を予期してしまうのですが、その悪いことの全責任を自分が負わなければならない(つまり自分とすべて関連付ける)といった思考に走ってしまうのです。
 虐待者が虐待の理由を伝える、サバイバーはそれを信じてしまうので、自分の受ける虐待は自分自身の何かに関係していると信じてしまうのですが、自己中心的思考がその傾向を助長するように私は思うのです。

(補注)
 外界の現象を過度に自分と関連付けてしまう思考を私は「自己中心的思考」の範疇に含めているのですが、ピアジェ並びに発達心理学の領域で言われる「自己中心的思考」はもう少し異なったニュアンスを有するものであります。
 そのことはここでは詳述しないことにするのですが、本節で注目したいことは、現象と自分自身との関連づけにおける論理性であります。架空の例として挙げた子供においては、雨が降るという自然現象と自分が悪いことをしたという過去の事実とを結合させているわけですが、問題となるのはその両者の結合の仕方における論理性であります。
 成長するほどこの種の関連づけが減少するというのは、その結合の論理性を問うようになるからであります。つまり、雨が降ることと、自分の行為との間に関連性があるかどうかを論理的に判断できるようになるわけであります。自分が悪いことをした、そのせいで今日雨が降ったというように感じられているけれど、雨が降るというのは自然現象であって、自分の力の及ばない領域の出来事である、そうだとすれば雨が降ることと自分のその行為とは関係がないのではないか、などと、このように考えていくことができるのです。そして、そうした思考行為・思考過程は「現実吟味」につながっていくのです。
 次に、この例に登場する子供の思考が正しい場合のことを考えてみましょう。つまり、自分が悪いことをした―そのために雨が降った―そのために遠足が中止になった、というこの関連性が正しいと仮定した場合、そのためにはどういう条件が必要でしょうか。私は以下の三つを仮定します。
 ①自分に生じる悪い出来事は必ず自分の悪い行いによってもたらされているという疑いようのない事実と法則が必要であります。しかも、この法則には例外があってはならないのです。つまり、法則の絶対化が必要であります。
 ②自分には自然現象を操作するだけの力がある、もしくはそういう力を持たされている、そういう事実が必要となります。つまり、自己の万能性、誇大性が必要であります。
 ③もし②でなければ、自分を監視している第三者がいて、その第三者は自然現象を操作するだけの絶大な力を持っているという事実が必要となります。つまり、他者の万能性、誇大性が必要であります。
 こういう事実ないしは条件が揃うなら、この子の思考は正しいということになると私は思うのです。そして、サバイバーたちはこの種の思考をしてしまうことがあるようにも私は思うのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月15日公開