<15-4A>虐待の理由(1)

<15-4A> 虐待の理由(1)

(疑問点)
 サバイバーたちと面接していると、「おや?」と不思議に思う場面が私にはあります。それは彼らが受けた虐待の理由に関するものであります。
 虐待者は虐待の理由を彼らに話すのです。彼らの方でも虐待者にその質問することも少なくないようです。いずれにしても虐待者は虐待や暴力の理由を彼らに伝えるのです。そこで「お前がこれこれこうだったから殴った」とか「これこれの理由で手を上げた」といったようなことをサバイバーたちは告げられているのです。
 私が不思議に思う点は、サバイバーたちは虐待者の言う理由を信じ切っているところです。まったく疑うことなく、頭からその言葉を彼らは信じているのです。そればかりか、それに対してはいかなる反論をも受け付けないといった態度のサバイバーもおられるのです。
 なぜ、彼らは虐待者の言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうのでしょう。

(理由のパターン)
 その前に虐待者の言う理由について見ておきましょう。
 虐待者が虐待の理由として挙げていることは、大体三つくらいのパターンに分類できるように私は思います。
 まず一つ目として、サバイバーが何か悪いことをしたとか、あるいはサバイバーに何か悪いものを見たとか、そういう理由付けがなされることがあります。要するに子供が悪いことをしたので子供を叩いたという理由づけであります。
 次に、それとは逆に、サバイバーが何か望ましいことをしたとか、サバイバーに何か良いものを見て取ったとか、そういう理由付けがなされることがあります。特に、サバイバーが価値を置いている領域にその理由がもたらされることがあります。少し理解しづらいかもしれませんが、これは子供が良いことをしたから子供を叩いたという理由付けであります。これについては後に取り上げることにしましょう。
 最後に、ほとんど不明のものがあります。虐待の理由がほとんどサバイバー個人に関係がないようなものであります。虐待者の応援していた野球チームが負けたからとか、そんな理由であります。虐待者にしてみれば腹の立つような出来事であっても、サバイバーには無関係である出来事が理由として挙げられるのです。こんな理不尽な理由でさえ、サバイバーはそれを信じているのであります。
 いずれのパターンであっても、理由付けがなされることによって、サバイバーは自分の受けた暴力と自分自身とを関連づけることになってしまうのです。この暴力と自己との関連づけの問題は、サバイバーを援助していく際に常に付きまとう問題であります。しかし、この関連づけに話を進める前に、虐待者の言う理由についてもう少し述べておくことにします。

(その理由は当てにならない) 
 私は虐待者が自ら述べているそうした理由はまったく当てにならないものであると信じています。
 まず、それが意図的行為と呼べるものであるかどうか、そこに疑問があるのです。これについては後で説明します。
 次に、言語化と行動化の問題があります。もし、虐待者が言語的に報告できるなら、暴力ではなく、もっと言語的な行動がその場で生まれていたことでしょう。暴力を振るうという行動化を起こしている時点で、虐待者は自分自身を言語化できない状態にあったと私は見ています。従って、虐待者が後から言語化したものは、その瞬間に生じていたことを正確に表していない可能性が高いと私は考えています。
 最後に、虐待者が虐待の理由として挙げているものは、暴力行為が発生する「条件」であって、理由でも原因でもないのです。子供が悪いことをして叱った時に、ついカッとなって手を上げたなどという言明は、手を上げたことの理由ではないのです。何となく因果が成立しているように見えるのですが、叱る時に、あるいはカッとなっても、人は必ずしも暴力を振るうとは限らないからです。だから、それらは一つの条件、虐待者にとっては暴力を振るうことになった条件のようなものと考えることができるのです。このような条件を理由と混同してはいけないと私は考えています。

(反射的行為)
 最前にて先送りにした問題を取り上げましょう。
 私たちは意図して何かの行為をします。意図的にその行為をするということであれば、当然、その行為をする意図というものが存在しているはずでありますし、その行為をする理由というものもあるはずです。
 暴力を振るうとか、虐待をするとか、こういった表現はともすればそれらが意図的な行為であるという印象を与えるかと思います。確かに、意図的になされる暴力もあるでしょう。しかし、私の個人的な見解では、暴力というものはほとんどすべてが(それが言い過ぎであれば、少なくとも暴力行為の半分は)非意図的な行為であります。
 では、非意図的行為とは何かということですが、これの代表的なものは「反射」と呼ばれる行為であります。
 反射のよく知られている例は、膝のある部分を叩くと足がピョコンと動くというものです。なぜ膝のその部分を叩くと足がそのように動くのか、私たちはその理由を探し当てることができないのです。意図して動かしたわけではないからです。
 ここで、膝を叩いたから足が動くのだという説明をした時、なんとなく因果を説明されているような気がするのですが、本当はその原因を述べているのではないのです。膝を叩くというのは、そのように足が反射的に動くことの条件でしかないのです。
 また、その部位に刺激を受けると、不随意筋がこのように作動して、それであのように足が動くのだという説明をされたとしても、それはメカニズムが説明されたのであって、足をそのように動かしたことの理由とはならないものであります。
 要するに、反射に関しては、理由や意味を見いだすことができないのです。膝を叩かれた時、私はあのように足を動かしてしまった、あのように足を動かすことによって私は何をしようとしていたのか、何の意味があったのか、などと、そんなことをいくら考えても答えなんて出ないのであります。
 さて、私たちの行為には、「反射」とまでは言えなくても、限りなく反射に近い行為というものがあります。それを「反射的行為」とここでは呼んでおきます。
 例えば、転倒しそうになった時、とっさに手を突くことがあります。このとっさに手を突くというのが反射的行為であります。なぜ、それが反射的行為であって、純粋な反射ではないかと言うと、そこで手を突くことのできないという人もあるでしょうし、手を突くことのできない状況であることもあるでしょう。膝を叩いて足が動くというように、必ずそうなるというわけではないので、反射的行為とみなしているわけであります。
 さて、転倒しそうになった時、「ああ、転ぶ、ここで手を突けば全身打撲は免れる、よし、手を突こう」と意図して、手を突くわけではありません。意図するよりも先に手を突いているのです。意識するよりも先に体が動いていたとか、気が付いたらそのように行為していたとかしているわけであり、それらは反射的な行為(もちろんその他の行為である可能性もあるでしょう)と考えることができるのです。
 そして、反射的行為は、反射と同様、その行為の理由が不明瞭なのであります。なぜそのように動いたのか、そう問われても、意識する以前にそう動いていたわけなので、当人には答えようがないのであります。理由なんて述べられないのです。後から、打撲を防ぐために手を突いたのだといった理由を述べたとしても、その瞬間にそれを意識していたわけでも、その意図を認識していたわけでもないのです。
 さて、本題に戻りましょう。要は、虐待者のする虐待行為や暴力行為が反射的な行為であるとすれば、その行為の理由なんて本人にも分からないであろうということなのであります。では、その虐待行為が、意図的行為ではなく、反射に近い行為であるかどうかを見ていく必要があります。分量の関係で次項に引き継ぎます。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月15日公開