<15-3C>「根こそぎ」と「根下ろし」(3)

<15-3C> 「根こそぎ」と「根下ろし」(3)

 この15章3節で述べたかったことは、サバイバーの問題は二種類(もしくは二段階)のものとして考えることができることと、それに対する治療や援助の順序ということであります。すでに大まかな内容は記述しましたので、本項では、いくつか言葉足らずであったところを補足しながら、まとめておこうと思います。

 サバイバーたちは虐待状況を経験してきました。それは暴力要素が日常的にあるという生活であります。
 暴力の内容、および、それをどのように経験してきたかということは個々のサバイバーによって異なることでしょうが、敢えて共通している経験は何かと考えてみると、私はそこに「根こそぎ」の体験を見る思いがするのです。暴力場面において、彼らは何かが「根こそぎ」にされてしまうような経験をしているということであります。
 何が根こそぎにされるのかも個々のサバイバーによって異なることでありましょう。それは物理的なものだけではなく、より心理的な次元の何かであります。例えば、何かの欲求であるとか願望であることもあるでしょう。あるいは将来の夢とか時間的展望とか理想とか、そういったものであることもあるでしょう。技能とか能力とか、そのようなものであることもあるでしょう。もちろん、クライアントCのように彼の所有物(心的にはその人の一部である)であることもあるでしょう。
 もっとも大きな「根こそぎ」は、彼らのアイデンティティに関わる部分であると私は考えているのですが、アイデンティティについては次の第4節で取り上げることになるので、ここでは省いています。

 さて、彼らはこの状況を抜け出すのです。あるいは抜け出ようと試みるのであります。ここから彼らがサバイバーとなるわけですが、彼らは新しい生活に踏み出すのです。
 この新しい生活は、虐待者から離れた生活であり、暴力要素の含まれていない平和な生活であります。彼らはその生活に「根を下ろす」ことをしなければならないのです。
 平和であるとは、その生活に暴力がないという意味であり、苦労や苦しみのない生活という意味ではありません。生活上の諸困難や人生上の諸問題、発達上の諸課題などは、彼らにも等しく課せられていくのであります。
 それらは彼らに過重な負担を強いることになるようです。私の言葉が差別的に響いたとすれば申し訳なく思うのですが、それは要するに、彼らは生きていくために必要な多くのものを身に着けずにおり、困難を乗り越えることに人一倍苦労してしまうようであります。そうして、彼らは彼らが自ら踏み出したその新しい生活を苦しいものとして経験し始めるのだと思います。
 少し極端な言い方をすれば、彼らは必ず援助を必要とするのであります。困難や問題、課題に対して、彼らは無力であるからであります。
 彼らの生活は苦しみに満ちてきます。私はこの段階があると憶測しているのですが、生活に苦しいことが発生するということは、この生活が間違っているということであり、その生活に踏み出した自分の決断も間違いであり、その生活に身を置いている自分自身でさえもが悪い存在になったかのように感じられてしまうのではないかと私は思うのです。自分自身の中で疑惑や後悔などの否定的な感情が渦巻くようになる、そういう一時期を経るのではないかと思うわけです。
 しかし、彼らのその考えはは逆であると私は考えるのです。どれだけ苦しいことが生じたとしても、虐待者と距離を置く生活は望ましく、その決断は正しいと考えています。しかし、彼らは自己不信に陥るわけです。虐待者から離れることが正しいと信じていたその信念がぐらつくのであります。
 ぐらつくのは信念だけでなく、サバイバー自身も同様であります。彼は自分が間違っており、悪い人間であり、何もできない人間であり、当然、罰せられて然るべき人間であるように自分自身を経験していくようになるのではないかと私は思うのです。
 こうして、徐々に彼の生活に「暴力」が持ち込まれていくのであると私は考えています。あたかも自分を処罰してくれる人を求めるように虐待者を求めてしまうところがあるように私には感じられてるのです。そして、現実にそういう人物と縁ができてしまうのであります。
 また、生活に暴力要素が持ち込まれるということは、暴力的な人間と縁ができるというだけではなく、彼らの暴力を「発見」してしまう行動が増加するのです。暴力のない場面に暴力を感じ取るなどといったことが彼らに起きるのであります(これに関しては後の「暴力メガネ」のところで取り上げます)。
 彼の生活世界には暴力が蔓延するようになるのであります。言わば、暴力が日常的であったという過去の生活が再現されてしまうわけであります。この類似性が、彼らをして、現在の問題と過去の問題を一つのものとみなしてしまうのかもしれません。
 それを一つの(あるいは一連の)問題と見るか、それとも別々の問題として見るかに関しては意見が分かれるだろうと私は思います。ただ、私はそれを個別に見たいのであります。一続きの問題であるとしても、一度、分けて考えてみたいのであります。
 彼らには状態の良かった時期、あるいは平和な生活を送ることができていた日々を確認することができるのです。もし、これが一連の問題であると仮定すれば、この平穏な時代、彼らが望ましい状態にあった時代は問題の一環でなければならなくなるのです。つまり、その時期は、彼らが「成功」している時期ではなく、問題の「潜伏期」として理解しなければならなくなるわけであります(サバイバーの中には現にそのように理解している人もあるようです)。私の個人的心情としては、どうしてもそう考えたくはないのであります。その時期を、彼らが虐待問題を克服できていた時代であると見たいのであります。
 その時期、彼らは「成功」しており、虐待を克服できているのであれば、その生活に根を下ろしていくこと、根付いていくことが何よりも重要であるはずであります。「治療」とか援助とは、まず、それを達成することであると私は考えているわけであります。
 これが「根下ろしの完遂」ということであります。この「根下ろし」という問題(と言いますか課題)は、サバイバーに特有というわけではありません。どのクライアントも、多かれ少なかれ、それをやっていくのです。望ましい生活に踏み出した人があれば、彼がその生活に根を下ろすことを援助するわけです。その人の中に何か望ましいものが芽生えたとすれば、その望ましいものが彼に根を下ろしていくことを援助するわけであります。特別なことではないのです。サバイバーたちは、かつて「根こそぎ」にされたものを再獲得していき、それが彼に根を下ろしていくのを手伝い、かつ、彼の生活が平穏になることを助け、その平穏な生活に彼が根付いていくことをサポートすることになるのです。私は「治療」とか「援助」とかいうものは、そういうものであると考えています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月14日公開